近年は少なくなってきたが、プロ野球の長い歴史の中でアッと驚くようなトレードが何度も行われてきた。選手の野球人生を劇的に変えたトレード。週刊ベースボールONLINEで過去の衝撃のトレードを振り返っていく。 火種は中西と豊田の不仲

豊田の国鉄入団会見。左は監督の浜崎真一
[1962年オフ]
西鉄・
豊田泰光⇔国鉄(金銭)
それは必然の流れだったのかもしれない。西鉄を黄金時代に導いた
三原脩監督が1959年限りで退団し、大洋監督に。その後を
川崎徳次監督が継いだが、優勝から遠ざかり、観客動員も苦戦が続いた。
62年、満を持しての秘策であり、ある意味、禁じ手に西鉄が出た。いずれも選手兼任で29歳の
中西太が監督、27歳の豊田泰光が助監督、25歳の
稲尾和久が投手コーチ就任、いわゆる「青年内閣」の結成である。話題にはなったが、当初から「うまくいくわけがない」という声が多かったのも事実だ。
火種は、中西と豊田の不仲。もともと、温和な中西と短気な豊田では性格が違い過ぎる。56年、最終戦をともに欠場して首位打者を分け合った一件以来、ずっとぎくしゃくしたままだった(豊田は試合に出て決着をつけたかったという)。
それでも成績が良ければ問題はなかったのだろうが、5割前後で低迷するなかで、案の定、ベンチは何度も修羅場になった。故障を抱えながらも、強い責任感から四番に座り続けた豊田が、けんしょう炎で試合になかなか出られない中西に対して憤り、「俺だって体が痛くてもやっている。そんなくされ手首切ってしまえ!」と怒鳴ったこともあったという。
早々に空中分解し、チームは3位に終わった。こうなると、もはやもつれた糸は元に戻らない。豊田の移籍は既成事実のように伝えられ、中西は否定するが、球団に「自分を取るか、豊田を取るか迫った」とも伝えられた。
オフになると、すぐ
巨人・
川上哲治監督から正式に獲得の申し出があり、シーズン中に2度、豊田と会っていたことも明かした。実は、豊田自身、移籍の可能性をシーズン中から漏らしており、すでに数球団と話し合いをしていたらしい。西鉄も否定はしたが、水面下では外国人選手獲得を進めており、豊田の移籍マネーを見込んでの動きではないかとウワサされた(当時の西鉄は赤字に悩んでいた)。
結局、豊田からも移籍の申し出があり、5000万円の金銭トレードで国鉄入りが決まった。交渉の段階では、
金田正一と豊田の交換話もあったという。福岡では熱烈な西鉄ファンが「裏切り者は許さん」と、豊田襲撃を狙っているという物騒なウワサもあった。
西鉄はこの「豊田資金」で、すでに内定していたウイルソンに加え、
若林忠志コーチの人脈でロイ、バーマを獲得。彼らは「助っ人三銃士」と呼ばれ、翌63年の大逆転優勝に貢献した。
写真=BBM