背番号は選手たちの「もうひとつの顔」だ。ある選手が引退しても、またある選手がその「顔」を受け継ぐ。その歴史を週刊ベースボールONLINEで紐解いていこう。 2リーグ分立が最初のエポック
ほとんどの場合、「1」から「10」までは野手、「11」からは投手が並ぶ。つまり、背番号順に選手が並ぶと、「11」が投手の筆頭となるのだ。「1」がチームの顔と言うべき打者のナンバーだとしたら、「11」はチームの顔と言うべき投手の背番号だ。
2リーグ分立と時を同じくして、「11」が投手ナンバーとして確立したと言える。その1950年、
巨人で
別所毅彦が背番号を変更して「11」に。初代の日本シリーズ覇者となった毎日には“火の玉投手”と呼ばれた左腕の
荒巻淳がいた。
その後は、「11」の野手は大洋と巨人のシピン、
日本ハムの
大島康徳など稀有だが、1リーグ時代は野手も多かった。巨人の初代は
内堀保で、キャッチングに定評があった捕手だ。阪急の2代目は
山田伝。ヘソの前でフライを捕るトリックプレーで魅了して“ヘソ伝”と呼ばれた外野手だが、左投げながら二塁も守り、投手としても8試合に登板した万能選手だった。これを
河野旭輝が継承したことで、阪急は2リーグ制となってからも韋駄天の系譜だった珍しい例だ。
【12球団主な歴代背番号「11」】
巨人 内堀保、別所毅彦、
渡辺秀武、
角三男、
斎藤雅樹 阪神 藤井勇、
野崎泰一、
御園生崇男、
三船正俊、
村山実(昌史)★
中日 野村実、
三沢淳、
小野和幸、
川上憲伸、
小笠原慎之介☆
オリックス 山田伝、河野旭輝、
戸田善紀、
佐藤義則、
松葉貴大☆
ソフトバンク 安井亀和、
上田卓三、
吉田豊彦、
小椋真介、
中田賢一☆
日本ハム
原田清、
稲垣正夫、大島康徳、
ダルビッシュ有、
大谷翔平 ロッテ 荒巻淳、
妻島芳郎、
水谷則博、
前田幸長、
佐々木千隼☆
DeNA 高橋重行、シピン、
斎藤隆、
山口俊、
東克樹☆(2018~)
西武 井上善夫、
森繁和、
石井丈裕、
岸孝之、
今井達也☆
広島 拝藤宣雄、
池田英俊、
池谷公二郎、
紀藤真琴、
福井優也☆
ヤクルト 成田敬二(啓二)、
田所善治郎、
西井哲夫、
荒木大輔、
由規☆
楽天 一場靖弘、
福盛和男、
塩見貴洋、岸孝之☆
(☆は現役、★は永久欠番)
90年からの新たな潮流

日本ハム・ダルビッシュ有
それぞれの時代に、それぞれの印象を残す好投手がいた。「長続きしない不吉な番号」と言われていた阪神で村山実(昌史)が背負い、悲壮感すら漂う“ザトペック投法”で巨人に立ち向かって「11」唯一の永久欠番に。
広島黄金時代には独特のフォームで真っ向勝負を繰り広げた池谷公二郎がいた。佐藤義則は阪急からオリックスにかけて「11」の最長となる22年間も背負い続けて、40歳でノーヒットノーランを達成。巨人では渡辺秀武や
高橋善正(良昌)、リリーフ左腕の角三男らを経て89年に11連続完投勝利のプロ野球新記録を樹立した斎藤雅樹が翌90年に継承する。
その90年、近鉄に野茂英雄が入団して「11」を背負うと、“トルネード投法”で旋風を巻き起こす。野茂は海を渡り、その「11」を継承したのがクローザーの
大塚晶文(のち晶則)。斎藤隆が先発の一角を担って横浜38年ぶりの日本一に貢献した98年には、「20」がエースナンバーの中日でも川上憲伸が着けて新たな印象を築いた。
21世紀に入ると、日本ハムではダルビッシュ有から大谷翔平がリレーして、2018年からはエンゼルスでプレーする。野茂は日本人メジャー・リーガーのパイオニアであると同時に、メジャーへ羽ばたく「11」のパイオニアとも言えるだろう。
写真=BBM