星野仙一さんは、いつも言っていた。「俺はベースボールの取材は断らん」。実際、ほとんど断られたことはない。恥ずかしい話だが、テレビ局などに比べれば、ウチのギャラなど雀の涙……。おそらく、球界にとっての専門誌の重要さを評価してくれていたのだと思う。そういった俯瞰(ふかん)した見方ができる方だった。 いま編集部では、1月26日発売予定で星野さんの追悼号を制作している。その中で、たくさんの資料を見て、たくさんの方から話を聞いた。それがあまりに膨大なので、これから毎日になるか、数日に1回になるか分からないが、追悼号には入りきらなかった話を当時の『週べ』の記事の再録も交えながら紹介していきたい。(以下は敬称略) デビュー戦は散々

新人時代の星野
中日入りを決めた星野仙一。当時は投手陣の世代交代の時期にあり、星野は、1年目の1969年から、いきなりチーム最多49試合の登板となった。
ただ、デビューは散々だ。4月13日、初登板は開幕3試合目の
広島戦第2試合(広島)。
興津達雄に3ランを浴び、KO。それからしばらくは登板すらなかった。
星野は「オヤジ(
水原茂監督)は俺のピッチングに見向きもしてくれなくなった。悲しかったとかいうより、俺はもうこれでダメなのかと思った。夜も眠れず、本当に悩んだ」と振り返る。
2度目の登板は5月5日、福井での広島戦だ。球場入りしてから先発を告げられ、初勝利を挙げた。
「それから10数年して水原さんに会ったとき、『あの日はセンターからホームに強い風が吹いていた。お前はスピードはあるが、コントロールが悪い。その強風がお前のコントロールの悪さをカバーしてくれると思ったんだ』。十何年も前のルーキーの初勝利をちゃんと覚えていて、そういう配慮をしてくれたのかと聞いてて涙が出ました」
以後は投げまくる。当初はリリーフ中心の起用で、15イニング連続無失点もあった。そのさなかで大学時代のライバル・
田淵幸一(
阪神)との初対決も実現している。
まず2球目、田淵のバットが星野の速球をとらえ、打球は左翼席上段へ。右から左に吹く強風でファウルとなったが、その後は内野フライに打ち取った。
試合後の星野は強気だった。
「え、風がなければホームランだって? とんでもない。あのコースを打ったら絶対ファウルになるんですよ」
一方の田淵は「星野のやつ、スピードも上がったし、中日に入って腕をあげたな」と語った。同年、故障で辞退した
田中勉(中日)の補充としてオールスター出場も果たしたが、おそらくその期間中に東映で新人・
金田留広と『強気こそ最良の消化法』という対談を行っている。金田は、あの
金田正一の実弟で球宴までに11勝を挙げていた。
星野の言葉の一部を抜粋する。
「マスコミはぼくのことを“強心臓の持ち主”とか“心臓で投げる男”とかいうけど、本当の自分はべつに気は強くないんだ。逆に弱いんじゃないかな。だからそういうマスコミがつけたニックネームは好きじゃないんだよ。ただ、勝負に生きる者がいつもしっぽを巻いて弱気な面ばかり見せていたら、それこそ一発で突き落とされてしまうと思うんだな。やっぱり強気でいかなきゃウソだと思う。いつも自分に言い聞かせているんだよ。強気でいけ、とね」
若者の等身大の言葉だ。
<次回へ続く>
写真=BBM