星野仙一さんは、いつも言っていた。「俺はベースボールの取材は断らん」。実際、ほとんど断られたことはない。恥ずかしい話だが、テレビ局などに比べれば、ウチのギャラなど雀の涙……。おそらく、球界にとっての専門誌の重要さを評価してくれていたのだと思う。そういった俯瞰(ふかん)した見方ができる方だった。 いま編集部では、1月26日発売予定で星野さんの追悼号を制作している。その中で、たくさんの資料を見て、たくさんの方から話を聞いた。それがあまりに膨大なので、これから毎日になるか、数日に1回になるか分からないが、追悼号には入りきらなかった話を当時の『週べ』の記事の再録も交えながら紹介していきたい。(以下は敬称略) 近藤コーチから抑えの指名

夏場は救世主とも言われたが
1969年、ルーキーイヤーのオフに結婚。70年は新しい家族のため、さらに前年、新人王を逃した悔しさをぶつけるシーズンともなるはずだったが、春の明石キャンプを風邪で出遅れたのも響き、4月は0勝3敗、防御率はなんと11.70、連敗はそのまま6まで続いた。当然言われるのが、「2年目のジンクス」だ。
イライラする星野に追い打ちをかけたのが、前年20勝のエース・
小川健太郎の逮捕である。西鉄を中心に「黒い霧事件」で八百長疑惑の選手たちが処分を受けていたが、小川の逮捕はオートレースの八百長だった。
星野はこの知らせを聞き、「こうなったら俺がやらんで誰がやる。エースがいないということはそれだけ俺たちに出番が多くなるということじゃないか」と意気込んだが、それがしばらくは空回りする。
5月17日、大洋とのダブルヘッダー(
中日球場)では1試合目に救援で好投した後、2戦目に先発もヒジ痛が出たこともあり、KO。さらに、その後がよくなかった。降板するや一目散にロッカールームに駆け込み、机をひっくり返し、大暴れ。周囲から「2年目なのに星野はナマイキだ。勘違いしているんじゃないか」と批判を浴びた。
ようやくの初勝利は、その後すぐの21日
ヤクルト戦(神宮)だ。「いままでは上を向いて歩けなかったけど、やっと肩の荷が下りた気がします」と、さすがの星野も神妙な表情を浮かべて語った。
以後、ヒジ痛に苦しみながらだったが、何とか立ち直り、最終的には41試合、205イニングに投げ、10勝14敗、防御率3.64。この年もまた、先発24、リリーフ17と起用法は安定しなかった。
さらに、その後、71、72年はほぼリリーフだったが、使われ方は、やや違う。
72年、
与那嶺要監督就任。投手コーチには、継投野球を標榜する
近藤貞雄が就いた。近藤は、「いまのうちにはずば抜けたエースがいない。つなぎでゲームをまかなうしかない。それには絶対の締めくくりが必要だ。これはもう星野しかいない」と星野を抑えに指名した。
対して星野もヒジ痛で長いイニングを投げるのが厳しかったこともあり、「どんな使われ方でもいい。自分の白星はなくてもチームが勝てばそれでいい」と腹を決めた。
近藤は星野のヒジの状態をシビアに見つつ、前年までの「どんな場面でも」ではなく、勝ちパターンの最終回をメーンで起用。結果、リーグ最多の43交代完了で9勝8敗、防御率2.00を残す。おそらく20セーブ以上はあったと思うが、当時は、まだセーブ制度は導入されていなかった。
<次回へ続く>
写真=BBM