形になったのは西武時代
また一人、昭和の野球人が逝った。
1月22日、
片平晋作さんが膵臓ガンで死去。68歳だった。
決して派手な球歴ではないが、過去、多くの選手がマネだけに終わった
王貞治氏(元
巨人)の「一本足打法」を完全に自分のものとした数少ない選手として記憶に残る。当時、ホームランバッターが一本足打法に取り組むことが多かったが、片平氏は身の丈を知っていたというのか、長打にこだわらず、技術を磨いたことが結果的には片平流の一本足打法を確立できた理由にもなったのかもしれない。
1949年8月5日生まれ、大阪出身。184センチの長身、スリムな左バッターで「ダンディー」の愛称もあった。水島新司氏の漫画「あぶさん」で、その名前を覚えたファンも多いかもしれない。
上宮高時代、王氏の真似をして一本足打法を試してみたら「しっかり自分のポイントに打て」(片平氏)、そのまま自分のものとしたという。
東農大から1972年ドラフト4位で南海入団。特殊な打法だったこともあり、「あまりコーチにあれこれ指導されなかったことがよかったのでは」と若手時代を振り返っていた。
73年から外野手として一軍に定着し、76年には107試合出場とレギュラーをつかみかけたが、翌77年はバセドウ病を発症して出番が減り、78年キャンプでは、全体練習から外され、リハビリ組のような扱いを受けたという。
その年のオープン戦の前だった。熱心に指導してくれていた
横溝桂コーチから「ここで結果出さんと終わりやぞ。俺はお前の努力を見てきたから結果を出せば監督に推薦してやる」と言われ、発奮。以後、死にもの狂いで練習、試合に取り組み、同年から3年連続100試合以上出場。79年には一塁のレギュラーとして規定打席にも達し、リーグ3位の打率.329をマークしている。
南海時代よくヤジられたのは、「王のマネか!」だった。
「夏場に王さんがアンダーシャツを半袖にすると、僕も1日の狂いもなく半袖にした、とか言われました。そんなわけない。そら夏はみんな半袖にしますよ(笑)」と片平氏。指にばんそうこうを巻くと「王さんとばんそうこうの指が違うぞ」と言われたこともあったという。
もちろん、最初が物まねだったことは確かだが、それだけで通用するほどプロは甘くない。片平氏は徹底的にバットを振り込み、自分に合った一本足打法を追求した。「形になった」と思ったのは、82年移籍した西武時代だった。
「柔らかく自然体で待てるようになった。もう物まねじゃなく、片平の一本足だったと思います」
同82年のプレーオフ、
日本ハムの
江夏豊を攻略するプッシュバントも印象的だった。82、83年と一塁のレギュラーとして優勝に貢献。85年は103試合の出場で規定打席未満ながら打率.302をマーク。すでにDHが中心だったが、86年に
清原和博が入団した際は、不振に陥ると「片平を使え」とヤジが飛んだこともある。
最終的には西武在籍5年中4回の優勝に貢献し、「西武時代が一番充実していました」と振り返っていた。
87年大洋に移籍し、開幕戦の
広島戦で
北別府学からホームラン。これは西武時代の85、86年につづく3年連続開幕戦ホームランでもあった。同87年は主に五番ファーストで102試合に出場し、13本塁打、打率.298をマークしたが、88年以降は
パチョレックの入団で代打が増え、89年限りで引退。その後は西武でコーチ、二軍監督などを務めていた(片平氏のコメントは、週べバックナンバーのインタビューなどから引用)。
写真=BBM