背番号は選手たちの「もうひとつの顔」だ。ある選手が引退しても、またある選手がその「顔」を受け継ぐ。その歴史を週刊ベースボールONLINEで紐解いていこう。 早投げで沸かせた左右の豪傑
近年は見かけなくなったが、先発完投が当たり前だった時代には、ちぎっては投げ、というテンポのいいピッチングで試合を作った好投手がいた。そんなタイプの右腕と左腕が「21」の系譜にいるが、ともに出世番号としているのが「48」だ。
右腕は東映の“江戸っ子投手”
土橋正幸。家業の魚屋で働きながら軟式の草野球を楽しんでいたが、知人の紹介でテストを受けると合格、2年目に「51」から変更すると一軍に昇格し、のちに「21」で暴れ回った。
左腕は
中日の
松本幸行。1年目から22試合に登板、2年目には早くも背番号を若くして、中日の「21」を左のエースナンバーというイメージにまで昇華させた。酒にまつわる逸話には事欠かず、土橋とともに昭和のプロ野球を鮮やかに彩る豪傑だ。
タイプは対照的だが、「21」の印象が強い岩隈久志も近鉄時代の「48」が出世ナンバー。
楽天やメジャーでも長く活躍して、「48」の系譜における出世頭と言える存在だ。
【12球団主な歴代背番号「48」】
巨人 中井康之、
香田勲男、マルティネス、
矢野謙次、
池田駿☆
阪神 前岡勤也、
久代義明、
仲田幸司、
久保康生、モレノ☆(2018〜)
中日 前岡勤也、松本幸行、
小森哲也、
井端弘和、
溝脇隼人☆
オリックス 田中(岸上)守、
松永浩美、
吉野誠、
甲藤啓介、
齋藤綱記☆
ソフトバンク 山本義司、
渡会純男、
西島貴之、甲藤啓介、
岡本健☆
日本ハム 土橋正幸、
白井康勝、
島崎毅、
本西厚博、
高山優希☆
ロッテ 中川隆、
高橋忠一、
高木晃次、G.G.佐藤、
宮崎敦次☆
DeNA 今井務(努)、
間柴富裕、
島田直也、
後藤伸也、
京山将弥☆
西武 川村博昭、
前田耕司、
黒田哲史、
帆足和幸、
武隈祥太☆
広島 三村敏之、
清川栄治、
天野浩一、
岸本秀樹、
アドゥワ誠☆
ヤクルト 阿井利治、
益川満育、
桜井伸一、
岩村明憲、
金久保優斗☆(2018〜)
楽天 竜太郎、
伊志嶺忠☆
(☆は現役)
“何苦楚魂”の最初と最後

ヤクルト・岩村明憲
「48」でブレークして「21」となったものの、すぐ「48」に戻したのが毎日の中川隆だ。2年目の1955年に最優秀防御率のタイトルを獲得、翌56年には背番号を若くするも失速し、その翌57年には早くも「48」へと“復帰”した。
NPBの最初と最後に「48」を着けたのが“何苦楚魂”でフルスイングを貫いたヤクルトの岩村明憲。ブレーク後は“ミスター・スワローズ”の「1」となり、メジャーでも活躍したが、楽天を経てヤクルトへ復帰して、再び「48」を背負った。
打者でも出世番号で、広島には監督も務めた三村敏之が、阪急には下積み時代の松永浩美がいる。近年では中日に井端弘和。遊撃守備の名手だが、打っては「48」のラストイヤーとなった2002年にサイクル安打を達成している。
89年に近鉄との日本シリーズで3連敗4連勝を呼び込んだ巨人の香田勲男を皮切りに、セ・リーグでは好投手が続々と輩出された。阪神にはリリーバーの久保康生。横浜にもリリーバーの島田直也がいて、その同時期にはパ・リーグで “初代ホールド王”になった日本ハムの島崎毅がいる。
21世紀には2チームで「48」を着けた甲藤啓介や西武の武隈祥太らセットアッパーのナンバーが多くなった。
異彩を放つのが南海の渡会純男で、通算419試合に“出場”した土橋と同時代の左打者だが、うち237試合は偵察メンバー。昭和のプロ野球を、また違った色で彩っている。
写真=BBM