
練習の合間には体のケアも入念に
プロ野球の歴史の中から、日付にこだわって「その日に何があったのか」紹介していく。今回は2月15日だ。
常に日の当たる道ばかりを歩み続けたエリートとは違う。どこまでもシンプルな情熱がこの男を支えている。
「野球がやりたい。選手でいたい」
1975年ドラフト外での
巨人入団。雑草魂で這い上がり、すでに17年もプロでメシを食っていても、
西本聖のこの思いだけは変わらない。
1992年2月15日は、保留選手扱いのまま沖縄キャンプに自費参加していた
中日・西本が宿舎ホテルムーンビーチで契約更改を行い、900万円ダウンの7600万円(推定)で選手契約を交わした日だ。
前年の91年5月8日の大洋戦(横浜)で下半身に力が入らなくなって降板。診断の結果は椎間板ヘルニアで、手術しなければ治らないという重症だった。9月15日には整体治療の権威リロイ・ぺリー氏をロスに訪ね、手術せずに完治を目指したが、思わしくなく、ついに10月15日、当時成功率75パーセントと言われた、せきつい軟骨除去手術を受ける大きな賭けに出た。
ただ、周囲の目は「西本はもう終わった」だった。
それでも12月4日に帰国した西本はさっそく練習を再開。キャンプにも自費参加した。必死のアピールが実り、15日の選手契約にこぎつけたのだ。
「また好きな野球ができるんだという気持ちで胸がいっぱいです」と西本。8日に一軍本隊のキャンプに合流以来、1日100球を超えるピッチングを続け、ほかの誰よりも早いペースでアピールを続けた。フォームからは手術の影響は感じられず、すでに
シュート、カーブも投げ始め、周囲からはむしろ「少しセーブしたほうが」の声もあったほどだ。
「野球の素晴らしさは1年、2年やった人より僕のほうが感じている。もう一度マウンドに立ってスタートしたい」
巨人時代は
江川卓とダブルエースとして活躍。89年、トレードで中日に移籍した年には、古巣巨人への雪辱に燃え20勝を挙げた。だが、そんな栄光はもはや過去のものと切り替えた。屈辱、絶望を乗り越え、雑草男が再スタートを切った。
写真=BBM