星野仙一さんは、いつも言っていた。「俺はベースボールの取材は断らん」。実際、ほとんど断られたことはない。恥ずかしい話だが、テレビ局などに比べれば、ウチのギャラなど雀の涙……。おそらく、球界にとっての専門誌の重要さを評価してくれていたのだと思う。そういった俯瞰(ふかん)した見方ができる方だった。 星野さんの追悼号制作の中で、たくさんの資料を見て、たくさんの方から話を聞いた。それがあまりに膨大なので、これから毎日になるか、数日に1回になるか分からないが、追悼号には入りきらなかった話を当時の『週べ』の記事の再録も交えながら紹介していきたい。(以下は敬称略) 「野球をもっと愛していこう」

楽天時代の星野監督は穏やかな表情も多かった
最下位に終わった2010年、監督不在のまま秋季キャンプがスタートした楽天。次期監督濃厚と言われていたのが、星野仙一だった。その後、10月27日、宮城県仙台で就任会見。
「やるからには歴史を作る第一歩にしたい。東北を、仙台を熱くするのが、私の仕事だろうと。新たな気持ちで自分を叱咤激励している」
背番号は、再び77。いつもの星野節ではあったが、周囲は、過去2度の
中日、そして
阪神、北京五輪監督就任時のような大騒ぎにはならなかった。静かなスタートと言っていいだろう。
今回は就任から4カ月、春季キャンプを終えた星野監督へのインタビューを抜粋する。
――キャンプ前日の全体ミーティングで選手たちに話されていた1つが、「野球をもっと愛していこう」ということでした。その愛は深まってきていますか。
星野 いないね、まったく。まだ告白もできていないような状態。いまのところ、まだ好きで終わっている感じだな。でもやっぱり、愛がないと成長しないし、いままで成長した選手というのは、野球にのめり込んで、ベッタリだった。なかなか難しいことなんだけど、そういう思いを強く持ち続けなければダメだよというのは、伝えたかった。
――その愛が深まってくると、監督がよく言われている「アメとムチ」ならぬ「愛とムチ」の、ムチの部分も増えてくるのかと。
星野 そうそう、愛とムチ。みんなは俺が激しい監督だとか表現しているけれど、こんなに愛情のある怒り方、激しさってないと思うよ。(ミスをした選手を)黙ったまま翌日から使わなかったら、こんな悲しいことはない。メディアのことを考えたりして、こういうこと言ったら(周りからの評価が)こうなるとか、そんなふうに考えていたら選手も育たないしね。
――東北や仙台のファンを拡大させながら、それを根付かせていくためにも、「ファンを楽しませる野球」というのも常に考えていかれる部分なのかと思います。
星野 そうだね。一番はチームが強いことがいいんだろうけど、負けても勝ってもお客さんが足を運んでくれるスタジアムにしたいからこそ、東北の人たちに愛されるようなチーム作りをしていかないといけない。監督や選手というのは、スタンドやテレビで見ている人に感動をいかに与えられるか。だから、勝負はもちろん、お客さんの心も追っていかないと。収益もそう。難しいよ。でも、それをやっていかないといけない。
――その先に、初優勝があればなお。
星野 それは、万々歳。それこそ、東北の人たちが待ちに待ったもの。東北の人たちというのは、根は熱いと思うんだよ。
――阪神で18年ぶりに優勝したときには、ファンから拝まれたこともありましたね。
星野 今度は雪の上に座って拝まれたりしてな(笑)。俺はそういうイメージを描いているよ。選手やチームに対するいろいろなイメージがあって、その向う側にあるイメージだね。楽しいじゃない。でも、東北の人もよく「優勝、優勝」と言うよな、10年は最下位だっていうのに。でも、われわれも優勝を目指していかないといけないんだよ。参加する以上は目指していかないと。
以前とは違う。自らの厳しさの「真意」も示しながら、チームを強くするために、強引に選手たちを引っ張ろうではなく、じっくり育てよう、そして東北の地にプロ野球を根付かせようという思いが伝わってくる。
これが最後、これが俺の監督の集大成──星野監督は、そう思っていたのだろう。
<次回へ続く>
写真=BBM