長いプロ野球の歴史の中で、数えきれない伝説が紡がれた。その一つひとつが、野球という国民的スポーツの面白さを倍増させたのは間違いない。野球ファンを“仰天”させた伝説。その数々を紹介していこう。 マニエル[1976-78ヤクルト→79-80近鉄→81ヤクルト/外野手]
もはや止めようがなかった。
1979年6月8日時点、まだ51試合しか出場していない段階ながら(130試合制)、24本塁打、60打点。長打だけではない。打率は.371、直前の7日まで24試合連続安打。5月23日から27日、6月3日から7日と2度の5試合連続本塁打もあった。まさに、バッティングに関する、すべての日本記録を塗り替えんばかりの勢いで打ちまくっていた。
勢いが止まったのが、6月9日だった。日生球場での
ロッテ戦で、投手・
八木沢荘六の球がまともに右アゴに激突。マニエルはアゴから血をしたたらせながらマウンドに向かおうとしたが、
西本幸雄監督らが必死に抑えた。すぐ入院。アゴの骨はグチャグチャに砕け、「シーズン絶望か」と言われた。
それまで「近鉄特急」と言われ、首位を快走していたチームは、この死球を境に一気に勢いを失い「鈍行」に。それでも「マニエルおじさんの遺産を食いつぶしながら」(西本監督)なんとか前期優勝。プレーオフでは後期優勝の阪急を破り、歓喜の球団初Vを飾った。
マニエルも8月4日にはアゴをガードするヘッドギアをつけ、復帰。ふたたび打ちまくって最終的には97試合の出場ながら37本塁打でホームラン王、打点94、打率も.324をマークし、MVPとなっている。
メジャー出場はあるが、ほぼ控えだったマニエルは、大きな期待をされることもなく、76年
ヤクルトに入団。2年目に42本塁打、97打点、打率.316、3年目、78年のVイヤーにも38本塁打、103打点をマークしたが、
広岡達朗監督は「走れない、守れない選手はいらない」と近鉄に放出した。西本、広岡両監督が電話で決めてしまったというが、パにはDHがあるから守る必要もなく、打撃のみに集中できるのは大きなプラスだった。
さらにマニエルにとって幸運だったのが西本監督との出会いだ。リラックスしたマニエルの構えとタイミングの取り方は西本監督の打撃理論とピタリと合った。性格的にも、いつも気難しい顔をしているが、意外と冗談好きな西本監督と気が合い、向こうは日本語、マニエルは英語なのだが、通訳も介さず、30分でも1時間でも話し続け、互いに腹を抱えてゲラゲラ笑っている姿がよく見られた。
マニエルは翌年も48本塁打、129打点で打撃2冠、打率も.325を残したが、契約でもめ退団。1年だけ古巣ヤクルトでプレーし、同年限りでアメリカに戻った。
写真=BBM