『ベースボールマガジン』で連載しているプロ野球選手の第2の人生応援プロジェクト「
パンチ佐藤の漢の背中」。現役を引退してから別の仕事で頑張っている元プロ野球選手の下をパンチさんが訪ね、お話をうかがってまいります! 今回は90年代のカープで中継ぎ投手として活躍し、現在は東京・代官山で「2-3 Cafe」を営むパティシエの
小林敦司さんをお訪ねしました。
職人肌で頑固な父にいつの間にか似ていた

小林敦司氏(左)、パンチ佐藤
パンチ 初めはどんなことからスタートした?
小林 皿洗いとか、下働きを全部やりました。父がオーナー兼板前で、父の下にお弟子さんもいましたからね。ただ親子の甘えもあって、父のやり方にいろいろ意見してしまいました。だけど、そこは父が作った店だから、僕がとやかく言う必要はないし、お弟子さんがいるのに僕が継いだところでどうなるんだろう、と。僕はもう手を引こう、と思いました。
パンチ お父さんには「何言ってるんだ、お前!」とか怒られなかった?
小林 父はそんなふうに感情的にならない人間なので、「好きなことをやりなさい」と。そのとき母親が「カフェをやりたい」と言ったので、そちらを手伝うことにしました。それで、カフェを手伝うにはケーキを作れたほうがいいんじゃないかと、まずはケーキ屋にアルバイトに出たんです。
パンチ お父さんからは、どんなことを学びましたか。
小林 2年半ほどだったので、ほぼ皿洗いくらいしかやっていないんですよ。でも父の姿をずっと見てきて、自分も父と同じことを、ここでやっているなと思います。
パンチ 例えばどんなこと?
小林 どんなに忙しくても手を抜かない、といったらお客さんに失礼なんですが、自分で仕入れも仕込みもして……。
パンチ 自分の店だと、強弱をつけることもできるもんね。お父さんのそんな後ろ姿を見ていたんだ。
小林 性格的にも同じになってしまいましたね。頑固というか。父を見ていて、「一度決めたことでも変えればいいのに」と思っていたのに、自分もなかなか変えられないんです。
パンチ 俺も奥さんに、「あなたお父さんに似てきたね」って言われるんだ。親父はもう、死んじゃったけど。やっぱり似てくるのかな?
小林 自然と似てくるんだと思います。父と僕は「経営者に向いていない」と、母親にはよく言われます。いいものだからといって使って、原価度外視とか。
パンチ そもそも料理をするのは結構好きなタイプだったの?
小林 いえ、まったくです。包丁を握ったのも、父親の店に入ってからで。
パンチ 和食に比べれば洋食のほうがいくらか早いと聞くけど……。
小林 僕もそう思ったんですけど、ケーキ屋さんも結構大変でしたよ。最初、タルト専門店に入って、タルトを全般的に作ったんです。
パンチ タルトを作る難しさはどんなところに?
小林 自分もタルトが好きだったんですけど、一つの型があって、上に載せるフルーツさえ変えれば何種類もできるような感覚でいたんです。ところが土台の形から、真ん中のクリームやムースから、全部違うんです。型が焼けるようになり、中のムースもできるようになり……と一つひとつ習得していきました。
パンチ 確かにそうだよね。こだわったお寿司屋さんは、ネタの種類によってシャリの握りの硬さとか、いろいろ変えるもんね。プロフェッショナルって、そういうことなんだね。
小林 思えば、それがよかったと思います。そこで、いろいろな知識が増えましたから。
パンチ なんの世界でもそうだよね。ピッチャーだって、真っすぐ一つとっても3種類くらい使い分けなければいけないでしょ。それで結局、自分でケーキが作れるぞって思うまでには何年くらいかかった?
小林 3年くらい経って、自分で考えながら全部の工程をできるようになってからですね。それまでは毎日、怒られてばかりでした。
<「3」へ続く>
●小林敦司(こばやし・あつし)
1972年12月8日生まれ、東京都出身。拓大紅陵高からドラフト5位で91年
広島に入団。サイドスローに転向し、5年目の95年にプロ初勝利を含む16試合に登板。97年には30試合に登板し、防御率2.20の好成績をマーク。同姓の
小林幹英投手につなぐ「あつかんリレー」が話題となる。01年
ロッテに移籍も、同年限りで引退。59試合登板、1勝1敗0セーブ、防御率4.40。現在は「2-3 Cafe」(東京都渋谷区猿楽町24-1 ROOB2-1F)のプレーングマネジャーとして料理の腕を振るう。
●パンチ佐藤(ぱんち・さとう)
本名・佐藤和弘。1964年12月3日生まれ。神奈川県出身。武相高、亜大、熊谷組を経てドラフト1位で90年
オリックスに入団。94年に登録名をニックネームとして定着していた「パンチ」に変更し、その年限りで現役引退。現在はタレントとして幅広い分野で活躍中。
構成=前田恵 写真=山口高明