長いプロ野球の歴史の中で、数えきれない伝説が紡がれた。その一つひとつが、野球という国民的スポーツの面白さを倍増させたのは間違いない。野球ファンを“仰天”させた伝説。その数々を紹介していこう。 ペルドモ[1992、96-99広島/内野手]
1999年6月27日の広島対
巨人戦。ミンチーを先発させた広島が2対2の同点の8回からマウンドに送ったのは、内野手登録の
ペルドモだった。すでに97年から投手として登板していたドミニカン。巨人にとっては、この年4月15日にエース・
斎藤雅樹がプロ初本塁打を打たれていただけに「野手」ペルドモの印象が強かった。
9回先頭の
仁志敏久に安打を許したペルドモに続き、3番手に
デハートが登板する。「登録は野手2人、投手2人まで」と定められていた(当時の)外国人枠に抵触するのではないか、と指摘する声が巨人ベンチから上がった。それでも、巨人側は抗議することなく、試合は続いた。
これこそが、
達川晃豊監督の外国人枠の盲点をついた裏ワザだった。試合前には
大野豊投手コーチが審判団に確認を取っていた。リリーフ陣に故障者が続出していたチーム事情がったとはいえ、準備を周到に進めた上での秘策だったのだ。
ペルドモはカープアカデミー出身。92年に入団し、一度は退団したが、台湾プロ野球を経て96年に再来日。内野手として6試合に出場した。その強肩ぶりが認められて翌97年には投手として登録。直球はMAX146キロを計時し、17試合にリリーフで登板し、2勝2敗、防御率4.03の成績を残した。
この試合はデハートが9回に
松井秀喜に決勝2ランを浴び、広島の勝利に結びつかなかった。さらに、7月に入り、セ・リーグ事務局の関係者が球場を訪れ、「ルール上は問題ないが、やりすぎると、他球団から抗議を受ける可能性はある」と「注意」。その後は外国人選手3人による継投が実現することはなく、二刀流・ペルドモはこの99年限りで退団した。
写真=BBM