プロ野球史を彩ってきた数多くの名選手たち。生まれた世代ごとに週刊ベースボールONLIN編集部がベストナインを選定して、“史上最強世代”を追いかけてみる。 投手層の薄さは捕手がカバー
時代は第一次世界大戦の真っ只中。アメリカ合衆国が参戦し、ロシアでは革命によってソビエト政権が誕生したのが1917年だ。アメリカでは5月に、のちに大統領となるジョン・F・ケネディが誕生。つまり、17年生まれのプロ野球選手はケネディと“同期”になるわけだが、華やかな生涯を送ったケネディとは対照的に、通好みのプレーで伝説となった渋い職人選手が多い。
【1917年生まれのベストナイン】(1917年4月2日~18年4月1日生まれ)
投手
野口明(東京セネタースほか)
捕手 門前真佐人(阪神ほか)
一塁手
辻井弘(国鉄ほか)
二塁手
本堂保次(阪神ほか)
三塁手
宇野光雄(
巨人ほか)
遊撃手
五味芳夫(名古屋金鯱ほか)
外野手
長持栄吉(
広島ほか)
南村不可止(巨人ほか)
鬼頭数男(ライオンほか)
指名打者
伊賀上良平(タイガースほか)
(東京セネタースは戦後のセネタースとは別チーム。阪神は1936年から39年までが「タイガース」、40年から「阪神」)
投手の層が薄いのが特徴であり、最大の弱点。ただ、これを違うポジションの選手で補えるのは、この時代ならではのものであり、それも“二刀流”のような華やかさではないところは、この世代ならではだろう。
マウンドに上がるのは野口明だ。プロ野球草創期を彩った野口4兄弟の長兄で、本職は捕手。43年には打点王にも輝いているが、プロ野球がスタートした36年に東京セネタースの結成に参加すると、チームの事情で投手となった。37年春には自己最多の19勝、秋には15勝で最多勝となっているから、タイトルは投手のほうが先だ。野口は“二刀流”というよりは、プロで投手へ転向し、のちに野手へ再転向した、というほうが的確だろう。
その球を受けるのが門前真佐人。阪神創設期のレジェンド捕手だが、のちに誕生したばかりの広島をベテランとしても支えた。一塁の辻井弘は広島の初代主将で、外野の長持栄吉も創設2年目に移籍してきた実力者。その意味では“カープ草創期世代”とも言える。
好守巧打の激シブ打線

巨人・南村不可止
打線の顔ぶれも渋い。巨人の“打撃の神様”
川上哲治と戦前の40年にデッドヒートを展開して首位打者に輝いた鬼頭数男が外野にいる。この世代きってのヒットメーカーだ。
その川上の“赤バット”ほど語り継がれていないが、“黒バット”で巨人の黄金時代を呼び込んだのが同じく外野の南村不可止(侑広)。2リーグ分立後、巨人が初の日本一に輝いた51年に、南海との日本シリーズでMVPとなった強打者だ。巨人からは“おとぼけのウーやん”こと宇野光雄が三塁に。シュアな打撃で鳴らした巧打者だが、三塁守備も慶大時代から絶品で、特に横っ飛びで打球を捕るライン際の強さには定評があった。
伊賀上良平(潤伍)は阪神で初代の背番号1となった三塁手で、三塁打が多く、球団初の満塁本塁打も放ったクラッチヒッターだが、三塁守備では宇野に軍配。指名打者として打撃に専念する格好に。
一方で、打撃には難があったが、39年に盗塁王となった五味芳夫が遊撃手。夏の甲子園で1試合5盗塁を決めた韋駄天だ。内野の要となりそうなのが二塁手の本堂保次(保弥)。“サイン盗み名人”と呼ばれ、内野ならどこでも守れる職人だ。
スター選手は不在で、決して選手層も厚いわけではない。ただ、野球巧者が並ぶ世代ではある。大勝はしないが、負けもしない。この世代、意外と強そうだ。
写真=BBM