今年、創刊60周年を迎えた『週刊ベースボール』。現在1日に1冊ずつバックナンバーを紹介する連載を進行中。いつまで続くかは担当者の健康と気力、さらには読者の皆さんの反応次第。できれば末永く、お付き合いいただきたい。 『「1000万円新人」キャンプでの生態』
今回は『1961年3月1日号』。定価は30円だ。後ろグラビアではメジャー、日本複数球団の争奪戦の末、大毎に入団したハワイの19歳投手・ディサのキャンプ風景。大いに期待されたが、制球難もあって日本での活躍はいま一つだったようだ。
本文巻頭は『
巨人軍渡米組と冷やめし組の感情』。2月11日に巨人のアメリカキャンプ行きメンバーが発表された話だ。V9の根幹になったとも言われるベロビーチキャンプである。
川上哲治新監督の下、選ばれたメンバーは当然、シーズンでも主力。悲喜こもごもがあったようだ。主力では日系人の
宮本敏雄がもれた。これはハワイからの帰国、キャンプへの合流が大幅に遅れたため。いままで宮本は
与那嶺要にビザ申請を手伝ってもらっていたが、与那嶺の
中日移籍で手間取ったらしい。
一方で前年の日本一、大洋の明石キャンプは18日で打ち上げ。異例の早さだ。以降はオープン戦開始まで多摩川で練習となった。ただ、短いと言えるかどうかは解釈の違いで、このオフの大洋は野球協約違反を承知で、野球教室の名目でトレーニングをしていたし、帰京後もすぐ練習再開。逆に異例の長期キャンプと言えるかもしれない。
今回は『オリオンズよ さようなら』という渋谷悦子さんの手記に注目した。意味深なタイトルだが、そうややこしい話ではなく、大毎の本郷宿舎のおばさんとして知られていた渋谷さんが、この1月限りで身を引くという話だ。
宿舎はいまなら合宿になるが、大毎の場合、少し事情が違った。いわば民泊をしていたのである。
渋谷さんは戦争未亡人で、大きな家をもてあまし、世間がまだ物騒だったこともあり、当時大阪方面の人間が多かった毎日(大毎の前の球団名)の東京宿舎を買って出た。「選手のみなさんを用心棒代わりに」ということだ。その後、チームの本拠地が東京と定まったことで事実上の合宿となったが、自身の健康問題もあって身を引く決心をしたという。
ただ、最後にこんな文章がある。
「合宿に住む選手さんにこそ温かい手をさしのべてやるべきが本当でしょう。私はとかく花形選手だけをだてあげる、現在のやり方にいささか憤まんを感じ、そういうところにファイトをなくしたというのがいつわらざる心境です」
当時、二軍選手の扱いは、かなりぞんざいだったらしい。この時点ではまだ新しい合宿が決まっていないどころか、連絡もなく、選手たちの布団が次々送られてきて困っていたようだ(年内で一度きり、3月から営業再開という流れだったようだ)。
フラッシュは、5月20日の那覇市制40周年を記念し、5月20日、21日と沖縄で西鉄─東映戦が開催されることが発表されたという記事だ。まだ沖縄が「日本であって日本でない時代」で公式戦の開催は史上初となる。
以下、宣伝。
週べ60年記念シリーズ『巨人編』が好調発売中。次回、
日本ハム編はあす発売です。
では、またあした。
<次回に続く>
写真=BBM