4月10日の西武戦(ZOZOマリン)で福浦和也が球団新記録となる通算2162試合出場を果たしたが、それまで記録を保持していたのは榎本喜八だった。打撃の神様・川上哲治をはじめ「この男こそ打撃の天才」と口をそろえる稀代のスラッガーの野球人生とは――。 いきなり背番号3

毎日・榎本喜八
心技体すべてで打撃を極めようとした天才。人付き合いのヘタさと、極端なまでの求道的姿勢で、周囲から誤解されたこともあったが、孤独を恐れず、信じる道を貫き通した。
母親を早くに亡くし、出征した父親はシベリヤ抑留生活。幼少期は貧しさの中で暮らし、屋根に穴が開き、雨漏りがするような家だったという。小学生から野球をはじめ、最初は投手。中学に入って外野手となった。
早実時代は2年春からレギュラーとなり、3度甲子園出場。その打撃センスは評判となったが、プロからの誘いはなし。早くプロで金を稼ぎたいという思いがあった榎本は、早実の先輩で、早大から毎日(のち
ロッテ)へ入団が決まっていた
荒川博久(博)に頼み、1955年テスト入団。当時の監督・
別当薫は榎本のバッティングを高く評価し、背番号3をもらっている。
オープン戦から結果を出し、開幕戦は一塁で五番。そのままレギュラーに定着し、オールスターもファン投票で選ばれている。打率は終盤まで3割台をキープしていたが、最終戦で惜しくも割って、.298。それでも、その年の記録のほとんどが高卒新人の歴代最高記録だった。
2年目以降、3割の壁をなかなか越えられなかった。転機となったのは58年オフ、先輩で打撃の師匠でもある荒川の紹介で、合気道や居合の世界に触れたことだ。自分が悩んできたことの答えがあると思い、どんどんのめり込んでいった。
1960年、榎本は「今年ダメなら選手をやめなければならないだろう。一流になれるかどうかの分岐点だ」と開幕前に話していたが、その意気込みどおり、打率.344と入団以来、初めて3割台をマークし、首位打者となった。榎本を天敵とし、榎本のときだけフォークボールを投げたという西鉄の鉄腕・
稲尾和久も「この年に関しては、どこに投げても打たれましたね」と脱帽した。
心技体の“融合”
心技体の“融合”も進んで行く。
「打撃は型じゃない。無の心境が重要」
「バットを自分の腕のように使う」
「自分の中にボールを引き込み、腹の中でバックスイングする」
など、宗教的な言葉も多かったが、要は自然体の構えからボールを引き付け、居合のごとく、反動ではなく、下半身主導でインナーマッスルを使いながらスイングするイメージだったのだと思う。
抜群の選球眼で知られ、ボール球には手を出さなかった。南海の捕手・
野村克也は榎本が際どい球を見送り、ストライクと判定された後、「3センチ外れているよ」とぼそりと言った言葉に驚いたという。捕球した自分の感覚とぴったりだったからだ。
戦った多くの一流選手が、榎本については畏敬の念を示す。“一流が認める天才”。それが榎本だった。
60年以来、4年連続打率3割台。66年には.351で2度目の首位打者となり、本塁打も自己最多の24本をマークしている。68年7月21日、近鉄戦ダブルヘッダー第1試合で史上3人目、31歳7カ月と史上最年少で通算2000安打を達成。第2試合では守備中に走者ともめ、バットで頭部を殴られる騒ぎもあった。
70年は初の規定打席未到達。71年は大不振で初の二軍落ちも経験した。72年、かつてのライバル、稲尾が監督となった西鉄移籍が決まった際には「よほどやめようかと思ったが、こんなポンコツを拾ってくれた西鉄に恩返しをしたい」と語っていたが、右足痛もあって結果を出せず。最後は自ら退団を決め、「役に立てず、申し訳ありません」と頭を下げた。
写真=BBM