優勝を決めた際の金村、伝説のジャンプ
100回の記念大会を迎える夏の甲子園。週べオンラインでも、本大会開幕まで、甲子園を沸かせた伝説のヒーローたちを紹介していこう。
それは甲子園史上“最高”のジャンプだった。
1981年夏、報徳学園(兵庫)の四番エース、
金村義明は最後の打者を渾身のストレートで三振に打ち取り、全国制覇を決めると、マウンドで大きくジャンプした。
それはセンバツの屈辱をリベンジする栄冠でもあった。
少年時代、プロではなく、甲子園にあこがれていた。
「母親の内職を手伝いながら高校野球をテレビで見ているときに、当時の甲子園は勝って泣き、負けて泣きの時代でしたから、母親がそれにもらい泣きをしているのを見ていて、いいなと思いまして」
小学校のときに作文に書いたのが、「報徳に入って、そこから阪急ブレーブスに入って、母親に家を建ててやりたい」。それが幼いころの目標だった。
初めての甲子園は3年センバツ。秋の近畿大会でPL学園(大阪)に敗れたが、PLが優勝したこともあり、選ばれた。
1回戦の相手大府(愛知)は、
槙原寛己(のち
巨人)がエース。「あんな速い球、生まれて初めて見ました」という金村は、負けず嫌いに火がつき、真っすぐばかり投げ込むも、序盤に大量失点。報徳学園の歴史のなかで初めての1回戦負けとなった(初戦の2回戦負けはある)。
このとき金村は投手としての自分に見切りをつけ、「投手は変化球でかわすだけ。とにかく勝てばいい」と割り切り、バッティングを磨くことを誓った。
センバツの後は散々だった。監督から「金村の一人相撲で負けた」と言われ、OBからは「お前のせいで負けた、報徳の恥」と言われたという。
3年夏は燃えに燃えた。監督に代われと言われても嫌ですと反抗し、県大会7試合を一人で投げ続け、甲子園出場を決めた。
2回戦で前年優勝の横浜(神奈川)に勝って勢い乗る報徳が3回戦で挑んだのが、
荒木大輔がエースの早実戦(東京)だった
試合は0対0で進むが、7回表早実が3点を先制。そのあと1対4とリードされ、報徳は9回裏の攻撃を迎えた。
絶体絶命のピンチだったが、“逆転の報徳”の伝統は生きていた。この回追いつき、10回裏サヨナラ勝ちだ。
決勝は京都商(京都)。報徳は2対0、金村は完封勝利を飾った。県大会から全試合を一人で投げ切っての優勝だ。
「たまたまだったけど100球完封勝利。98、99、100球はアウトコースストレート3つで三振。いままで変化球ばっかり投げてかわしてきたのが、唯一投手としてストレートだけ。あの天にも昇るガッツポーズをしてしまった。投手としての意地でしたね」
最後のジャンプは、「これだけ飛んだんだから、まだ体力ありましたね」と笑う。
「優勝投手はその年に一人しかいない。天狗になったこともあるけど、優勝投手というのは僕の源になっていますよね。恥ずかしいことはできない。何をやっても、あの優勝投手の称号がつくわけですから、いまも自分のパワーにしています」