
豪快なフォームから快速球を投げ込む
100回の記念大会を迎える夏の甲子園。週べオンラインでも甲子園を沸かせた伝説のヒーローたちを紹介していこう。
北陸の速球王として全国に名をはせた星稜高(石川)の
小松辰雄は1976年の夏に2年生エースとして甲子園に初出場した。
球は速いが制球力は今ひとつとの評価もあったが、初戦の2回戦、日体荏原(東東京)にいきなり2安打完封で13奪三振の快投を見せた。177センチ、70キロ。
細身の体からしなるように投げおろす速球は伸びがあって、日体荏原の打者は当てるのがやっとという印象だった。
勝てばベスト8の天理戦(奈良)前には、「絶好調です」と自信満々に語っていたが、序盤は制球が乱れ、3回裏四球と連打で1点を失った。しかし、4回に自らも浜風に乗せた本塁打を放ち、同点。結局、最後まで安定感なく、3対2で辛勝。
それでも「内角のストレートと外角にカーブを投げておけば打たれないとわかっていました」となかなかのビッグマウス。
準々決勝では好投手・
赤嶺賢勇がいた豊見城(沖縄)と対戦。またも自らのバットでたたき出した1点を見事に守りきり完封(1対0)。石川県勢初の4強入りを果たした。
ただし、準決勝の桜美林戦(西東京東京)は連投の疲れかいつもの切れがなく、8安打を浴び、1対4で敗れた。
翌年は、最終学年のパフォーマンスが期待されたが、春夏はともに甲子園初戦敗退。夏の智弁学園(奈良)、
山口哲治との投げ合いは大会屈指の熱戦と言われた。
その後、小松は
中日入り。2年目の79年に“スピードガンの申し子”と言われ、大ブレークする。