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大会2日目、始球式に登場した石井(現・木村)毅氏
高校野球がなければ、その街の名がこれほどまで世の中に知られることもなかっただろう。
箕島。
もう39年も前になる。1979年の夏、伝説の試合が生まれた。箕島対星稜。延長18回の死闘。延長戦に突入後、星稜が2度にわたって勝ち越しに成功するが、そのたびごとに箕島が起死回生の同点ホームランで追いつく。翌日の再試合まで最後のイニングになった18回裏、箕島・上野敬三のタイムリーが飛び出し、激闘に終止符が打たれた。
発売中の『ベースボールマガジン』別冊夏祭号、夏の甲子園100回記念大会特集号では、当時の箕島のエース、
石井毅さんのインタビューが掲載されている。延長18回、257球を一人で投げ抜いたアンダースローエース。現在は奥さんの姓である「木村」姓を名乗る。
新大阪から特急「くろしお」に揺られ、紀伊半島を南下すること1時間半。箕島駅に到着すると、石井さんが車で迎えに来てくれていた。そのまま同乗させてもらい、石井さんの事務所へと向かう。
街の真ん中を有田川が流れ、周りを囲む山々にはミカン畑が切り開かれていた。秋には、そこにミカンがなり、街は有田名産のオレンジ色に染まるのだという。箕島は有田市にある。しかし、いまでは有田市より箕島のほうが有名になったぐらいだ。
箕島といえば、尾藤公監督のイメージが強い。いまでは鬼籍に入られたが、どんなピンチの場面でも笑顔を絶やさぬ采配は当時の高校球界にとって革命的な出来事と言ってもよかった。高校野球の監督というのは、威厳や厳しさの象徴だったのが、それとは180度違う「尾藤スマイル」は、のちの上甲正典監督(宇和島東、済美)らに大きな影響を与えた。
その尾藤監督について振り返ってもらったとき、石井さんは「尾藤スマイルは甲子園だけなんです」と答えた。世間のイメージと身近で接する人間の感じることにギャップを感じることは往々にしてあるが、尾藤監督は当時の箕島のチームメートにとっては、厳しさの象徴以外のなにものでもなかったという。
逆にいうと、その厳しさがなければ、79年の春夏連覇を果たすことなど不可能ということだろう。
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夏の甲子園を大特集した『ベースボールマガジン』別冊夏祭号
奇跡のゲームとして語り継がれる箕島対星稜だが、石井さんによると、その奇跡を生むための“必然”があったという。延長で2度、星稜に勝ち越された12回、16回、どちらのイニングでも失点を最少失点の1点で抑えたことだ。だから、いずれもソロ本塁打1発で追いつくことができた。もちろん、それが出ること自体ミラクルだが、勝ち越された時点で守備側の気持ちが切れて大量点を星稜に許していたら、あの伝説の一戦は生まれていなかったという。
「これは人生においても一緒だと思うんです。いまはどんなにつらくて苦しくとも、耐えていけば必ずチャンスが来る」
人間が生きていく上で大切なことを、高校野球は教えてくれる。箕島対星稜はその最たるものの一つだ。だから、あの試合を語り継いでいきたい。そう語る石井さんは第100回大会2日目、始球式に登場して往年のアンダーハンドを披露した。
文=佐藤正行 写真=早浪章弘