
打たれても打たれても投げ続けた
100回の記念大会を迎える夏の甲子園。週べオンラインでも甲子園を沸かせた伝説のヒーローたちを紹介していこう。
大野倫。1991年夏、沖縄水産のエースとして決勝も含めた6試合をすべて投げ抜き、準優勝投手となった男だ。
ただ、評判だった140キロ台中盤のストレートを甲子園で見ることはできなかった。
3年生春にヒジを痛め、痛み止めの注射を打ちながら投げた夏の県大会で悪化した。
甲子園でも投げるたびに激痛が走る。それでも沖縄水産・栽弘義監督は「大野以外投手がいない。かわいそうだが、投げてもらうしかありません」と言い、大野も「痛みはありますが、試合になれば緊張感で忘れてしまいます」と言い続けた。
帽子のひさしに書かれた文字は「辛抱」。それもまた、痛々しかった……。
痛むヒジをさすりながら投げ、毎試合ボコボコに打たれる。
1回戦、北照戦(北海道)被安打10で4対3、2回戦、明徳義塾戦(高知)被安打11で6対5、3回戦、宇部商戦(山口)被安打7で7対5、準々決勝、柳川戦(福岡)被安打10で6対4、準決勝、鹿児島実戦(鹿児島)被安打14で7対6。
僅差の打撃戦での辛勝がパターンとなり、沖縄水産は2年連続で夏の決勝に進んだ。
大坂桐蔭(大阪)との決勝は、壮絶な打撃戦となった。4連投の大野は被安打16、13点を失いながら最後まで投げ続けたが、8対13で敗れた。
それでも試合後の大野はいう。
「甲子園のマウンドをまさか6試合も踏めるとは思いませんでした。自信を持って投げられなかったけど、最後まで投げることができて満足です」
6試合53イニングで773球。ヒジは完全に壊れ、閉会式で準優勝メダルを受け取る右ヒジは、曲がったままだった。
沖縄に戻って病院に行くと右ヒジの疲労骨折の診断。手術し、1年でリハビリの後、進学した九州共立大では野手になった。