1980年代。巨人戦テレビ中継が歴代最高を叩き出し、ライバルの阪神はフィーバーに沸き、一方のパ・リーグも西武を中心に新たな時代へと突入しつつあった。時代も昭和から平成へ。激動の時代でもあったが、底抜けに明るい時代でもあった。そんな華やかな10年間に活躍した名選手たちを振り返っていく。 いざ、無人の荒野へ

盗塁の世界記録を樹立し、ナインから祝福される阪急・福本豊
1983年6月3日、西武球場での西武戦。1回表から13球と粘って四球で出塁すると、すぐに走ってルー・ブロック(カブスほか)が持っていた世界記録の938盗塁に並んだ。だが、試合は西武ペース。9回表にも出塁したが、6対11と大きくリードされていて、「こんな試合で達成したくなかった」という。
二ゴロで二進したものの、遊撃を守る
石毛宏典に「今日は走らんからな」とハッキリ言った。敗戦が見えていたということもあるが、もともと「三盗は狙えば100パーセント成功するから、おもしろくない」と思っていたこともある。しかし、投手の
森繁和が何度となく牽制。たびたび石毛もベースカバーに入ってきて、
「思わず三塁へスタートを切って盗塁を決めてしまったんです。なんか釈然としない思いが残って、気の重い達成となってしまいました」
通算939盗塁。世界新記録の瞬間だった。確かに、
王貞治(巨人)が通算本塁打で世界記録を更新したときと比べれば、ある種の晴れがましさに欠けた、あっさりしたものだったかもしれない。だが、それもこの男らしく、むしろ凄味すら覚える部分でもある。
前編で述べた国民栄誉賞のエピソードは、この記録更新を受けてのものだ。シーズンでは、前年まで3年連続で同じ数字となっていたものを上回る55盗塁。だが、タイトルは近鉄の
大石大二郎に奪われてしまう。盗塁王にならなかったシーズンはプロ1年目に続く2度目。連続盗塁王は13年でストップしたが、現在もプロ野球記録として残っている。
この83年には通算2000安打にも到達しており、ある種の分岐点となったシーズンだった。ちなみに、絶対王者が陥落したパ・リーグの盗塁王争いは、その後は戦国時代の様相を呈していくことになる。
タイトルこそ若き韋駄天に奪われたものの、ベテランの域に達している世界の韋駄天は、無人の荒野を走り続けていくことになる。阪急にとって最後のVイヤーでもある翌84年。もっとも印象に残っている盗塁があるという。8月7日の南海戦(大阪)。通算1000盗塁という大きな節目に到達したときのものだ。
「マウンドには左腕の青井(
青井要)でした。初めての相手で、3回の牽制でリズムの違いが読めたんですけど、そこからさらに10回以上、牽制してきて。そうすると『まだ牽制があるかも』という思いが頭をかすめて、スタートが遅れてしまったんです。それを見た打席の弓岡(
弓岡敬二郎)が、わざと振り遅れて空振り三振。そのお陰で区切りの盗塁数に達した。だから印象に残っているんです」
盗塁は二番打者の助けがあってこそ。これが世界一の男にとって、謙遜ではない本音だった。
通算1065盗塁を残して
その84年は36盗塁。その後も全試合出場は続けたが、盗塁数は確実に減っていった。87年には右肩の脱臼で全試合出場も途切れ、ベンチから「走るな」というサインが出るようにもなってシーズン6盗塁。規定打席にも届かず。盗塁が1ケタにとどまったのは、プロ1年目に続く2度目のことだった。
もともと、数には無頓着。
「自分の誕生日(11月7日)にひっかけて通算1107盗塁はしたいな」と思っていたというが、これも数に頓着したようでいて、そうでないエピソードだろう。
引退時の通算449二塁打も当時はプロ野球記録だったが、のちに
立浪和義(
中日)が更新した。唯一、狙っていたのが三塁打で、通算115本は現在もプロ野球記録だ。
盗塁のインパクトが強烈すぎて、本塁打が多い印象は希薄になってしまったが、2ケタ本塁打は11度を数える。1080グラムの重い“すりこぎバット”でフルスイングして、初回先頭打者本塁打は通算43本。これもプロ野球記録として残っている。81年にはサイクル安打も達成していて、足だけではない強打者だったことが分かる。俊足を駆った中堅守備も絶品だった。
通算盗塁は1065。前編の冒頭にあるように、あまりにも唐突に記録は途切れた。世界一の韋駄天は、まさに疾風(はやて)のように、ダイヤモンドから姿を消した。
写真=BBM