1980年代。巨人戦テレビ中継が歴代最高を叩き出し、ライバルの阪神はフィーバーに沸き、一方のパ・リーグも西武を中心に新たな時代へと突入しつつあった。時代も昭和から平成へ。激動の時代でもあったが、底抜けに明るい時代でもあった。そんな華やかな10年間に活躍した名選手たちを振り返っていく。 300勝のボールはスタンドへ

1984年、通算300勝に到達した近鉄・鈴木啓示
1977年から2年連続で20勝を超えて最多勝、78年は最優秀防御率との投手2冠に輝きながら、連覇の79、80年は故障に苦しめられる。優勝の美酒は格別だったが、2ケタ勝利こそ残したもののエースと呼ぶには寂しい数字だった。そして、81年の急失速。近鉄も最下位まで転がり落ちた。もちろん、その原因のひとつにはエースの低迷が挙げられる。圧倒的な実力を持ちながらも、どこか運に見放されたような面がある。そこもまた、敬愛する
西本幸雄監督と似た部分だ。
そんな81年、西本監督の言葉で闘志を取り戻したことは前編で触れた。ただ、同年限りで西本監督は勇退。枯れかけた“草魂”は、「つらいほうの道」を選んで歩き出す。
さすがに70年代までの勢いはなかったものの、82年は11勝、83年は14勝と、徐々に勝ち星も増やしていく。最多勝のタイトルも遠かったが、特筆すべきは無四球完投だ。82年が5、83年は7で、ともにリーグトップ。一方、被本塁打も2年連続でリーグ最多だった。これは“本領発揮”を雄弁に物語る数字だ。通算成績では先発での288勝に並んで、無四球完投78、被本塁打560はプロ野球記録。被本塁打はダントツの世界記録でもあるが、これには胸を張る。
「(無四球完投は)完投にこだわり、ストライクゾーンで勝負した証。(被本塁打は)日生、藤井寺と狭い本拠地球場で、西本さんが“飛ぶボール”を使ったこともあるけど、逃げ回ったんと違う、男がケンカして眉間に受けた向う傷や。完投数や勝ち星より威張れる数字かもしれんですね」
そして84年5月5日の
日本ハム戦(藤井寺)。ついに通算300勝に到達する。「パ・リーグのお荷物」と言われるほど低迷を続けた近鉄、西本監督の就任で連覇にまで上り詰めた近鉄、そして西本が去った近鉄で、ひたすら投げ続けた結果の数字であり、「よっしゃ、やったぜ」と思ったというが、その瞬間、そんな300勝投手と“決別”。ウイニングボールを軽やかにスタンドへと投げ入れた。
「300勝は自分にとって通過点。そんなに騒がんといてくれ」
このシーズン、最終的には16勝。どん底の81年から、着実に勝ち星を伸ばしてきた。公共広告機構のCMにも起用され、中高生に「投げたらアカン」と語りかけた。このCMの効果は絶大で、若者たちに浸透。禁煙パイポのCMで流されサラリーマンを中心に流行した「(小指を立てながら)私はコレで会社を辞めました」と並び、「投げたらアカン」は流行語大賞に選ばれた。
だが……。
持ち帰った最初で最後のボール
翌85年7月9日の日本ハム戦(後楽園)で、3回裏に5点を奪われて降板。近鉄も3対19と惨敗した。そして、シーズン途中にもかかわらず、突然の引退表明。
「投げたらアカン、と言いながら、投げたやないか、と言われたが、やられたらもう性も根も尽きるぐらいの、これ以上は続けたら抜け殻になってしまうくらいやっとったんやと、ご理解いただければと思いますね。引退を決めたときも、打たれてもクソッという気持ちが出てこなかった。ああ、打ったほうがうまいな、って。こうなったら、もうユニフォームを着ていてはいかんのです」
評論家になっていた西本に報告をすると、「もう勝負する目やないな。ご苦労さん」と言われたという。その引き際を世間は揶揄したが、その瞬間こそ引退のタイミングだったことが西本には目を見ただけで分かったのだろう。
通算300勝に到達した日のボールは惜しげもなくスタンドに投げ入れた左腕が、プロ20年目にして初めて持ち帰ったのが、その試合で降板したときにグラブの中にあったボールだった。それは20年にわたる現役生活で唯一、手元に残ったボールとなった。
その背番号1は当時のパ・リーグで唯一の永久欠番となったが、2004年に近鉄と
オリックスが合併したことで失効となっている。
写真=BBM