今年、創刊60周年を迎えた『週刊ベースボール』。現在1日に1冊ずつバックナンバーを紹介する連載を進行中。いつまで続くかは担当者の健康と気力、さらには読者の皆さんの反応次第。できれば末永く、お付き合いいただきたい。 新人研修制度はどうして生まれたか
今回は『1964年1月13日号』。定価は40円だ。
前回でもふれたように、新人研修制度に対し、パ・リーグのオーナー会議が「全廃」を決議。一方のセ・リーグは、1カ月への短縮とした(従来は高校出100試合、大学社会人出50試合に出場できず)。
これが両リーグの対立に発展しそう、という。
簡単に制度が生まれるまでの流れを説明する。
言うまでもなく、背景には新人獲得競争によって契約金が高騰したことがある。
1955年10月7日の実行委員会で、新人を1年間試合に出さず、研修期間とする案が出されたが保留。その後、12月24日の実行委員会で契約金が高校出80万、大学社会人出で120万と決まったが、罰則もなく、ほぼ守られず、高騰が続いた。
1959年3月12日の実行委員会で、契約金の上限を1000万円とし、違反球団には罰金3000万、選手契約も無効と決まったが、結局、これを野球協約に盛り込むことは見送られ、オーナーの紳士協定となり、水面下での契約金高騰は相変わらず続いていた。
その中で議案に上がったのが「選抜会議」と「新人研修制度」だった。
選抜会議は年間の試合出場数が規定の数に届かなかった選手を、全球団で、いわば“競り”にかけるというもので、なかなか画期的と思うが、日本の実情にそぐわぬと実現せず。新人研修制度のみスタートし、62年7月23日の実行委員会で野球協約に盛り込まれることが決まった。
この2つの制度がどのくらい契約金高騰の抑止になるかはなぞだ。ただ、逆説的になるが、結果的に新人研修制度はパの一部オーナーの「せっかく高いカネを出して契約したのに1年間使えないなど、もったいない」の声につながり、全廃となったのだから、まったく効果がないということはないのだろう。
いずれにせよ、12球団の実行委員会で決め、野球協約にも盛り込んだことをパがオーナー会議でひっくり返したことに、内村コミッショナーとセ側が激怒した、という流れだった。
巨人の遊撃手・
広岡達朗の手記もあった。
自らの転機とし、58年オフ、カージナルスが日米野球で来日した際にブラッシンゲーム二塁手の守備を見たことを挙げている。
ブラッシンゲームはアクロバット的なスーパープレーの数々で話題になったが、広岡は「基本に徹したプレーぶりが、いくつもの彼の快技を生むということに気がついた」という。
ブラッシングゲームは、のち南海に入団した
ブレイザーだ。
ほか広岡は合気道との出合いによって、精神の重要性に気づいたことも挙げている。
本当に捕手だった!
今回の2枚目。
前回誤解があったようなので、トリミングして再掲載する。
これは間違いなく、捕手の像だった。ローマ・オリンピックのメーンスタジアムの横にあった大理石の競技場に各種競技の選手像が並び、そこから少し離れたところにポツンとあったらしい。
離れたところにあった理由は、野球のオリンピック参加が遅かったこと(あくまで公開競技だが)、大理石の競技場を造った時代のイタリア首相ムッソリーニがアメリカ嫌いで、アメリカのスポーツである野球を目立たぬところに置きたかったからだという。
と、そう偉そうに書いたが、前号では詳しい記載なく、こちらも何が何だか分からなかったが、この号であらためて記載があり、書き加えた次第である。だいたい大理石の競技場って何、と聞かれても答えられない。
1冊の情報は意外と限られているが、できるだけ正確に、かつわかりやすく伝えられるよう頑張ってみます。
なおエールフランスの招待で欧州旅行をしていた巨人・長嶋茂雄、王貞治、南海・野村克也、西鉄・稲尾和久の4人はモナコのカジノにも行き、
長嶋はすっからかん、王と稲尾は勝利、野村は「そんな無駄なことはしない」とやらなかったという。
では、またあした。
<次回に続く>
写真=BBM