今年、創刊60周年を迎えた『週刊ベースボール』。現在1日に1冊ずつバックナンバーを紹介する連載を進行中。いつまで続くかは担当者の健康と気力、さらには読者の皆さんの反応次第。できれば末永くお付き合いいただきたい。 大洋快進撃
今回は『1964年4月20日増大号』。定価は10円上がって50円だ。
開幕4連勝からセの首位をキープしていたのが、
三原脩監督率いる大洋だった。1960年、あの奇跡の優勝から6位、2位、5位と隔年の好不調が続いていた。
この年は、巨人のコーチを退任した
別所毅彦がヘッドコーチに就き、持ち前の“馬力”で選手を引っ張り、投手陣再建を目指したが、故障者が出て、開幕直後は
稲川誠だけの投手陣と言われた。
球団はテコ入れのため、メジャーで215試合に登板した左腕
ディーン・ストーンと4月に入り、急きょ契約。ただ、一度は前年限りでの引退を決め、秋以降まったく体を動かしていなかったというストーンは「すぐベストピッチを要求されても無理」と話していた。
別所がベンチに盛んに書き込むメモも話題だったが、ここで紹介されていたのは、たとえば
「最低の出来。三分ほどの力。悔し泣きをしていたが、その根性は今度こそと思える」
やや日記っぽい。
それでも
桑田武らを擁し、メガトン打線とも言われた打線の援護でチームは好調を維持していた。
監督の三原は騒動に巻き込まれていた。
この時期、新潮社から「三原メモ」という自著が発売されたのだが、実は完全な聞き書きで、三原はゲラを一度も見ていなかったという。
元プロ野球選手のKが書いたというが、1960年の日本シリーズ中心の内容で、読者からも「少し話が古いのでは」という声もあった。
三原は「現役監督が書くのはまずいと思っていた。そもそも『三原メモ』というタイトルにするなんて聞いてなかった」と言っていたが、Kは「そんなはずはない。三原さんにはタイトルも相談した」と語っている。
三原という人には、裏の裏のまた裏もある。いまとなっては、すべて藪の中だ。
なお、Kとイニシャルにしていた記事の中で一カ所だけ、楠と実名なっていたのはご愛嬌か。三原と同じ香川出身の
楠拡応だったようだ。
2枚目の写真は作新学院高から国鉄に入団2年目、高山忠克の記事だ。1年目は新人研修制度もあって二軍暮らしが続いたが、イースタンの優秀選手にも選ばれている。
手のひらが大きく、「(すでに引退していたが巨漢横綱として人気があった)朝潮より大きい」と話題になった(実際には、ほぼ同じだったらしい)。
この年は開幕から五番に入り、5試合で3本塁打、うち2本の満塁弾をマークしている。
では、またあした。
<次回に続く>
写真=BBM