今年、創刊60周年を迎えた『週刊ベースボール』。現在1日に1冊ずつバックナンバーを紹介する連載を進行中。いつまで続くかは担当者の健康と気力、さらには読者の皆さんの反応次第。できれば末永くお付き合いいただきたい。 別当薫監督の怒り
今回は『1964年6月22日号』。定価は50円だ。
1964年6月7日夜、大阪球場が事件の舞台になる。
9回表、2対1とリードした場面で、南海・
スタンカは近鉄のブルームに二塁打を浴びた後、
土井正博にも四球で一、二塁のピンチを招く。
さらに、この後、バントの構えをした
島田光二の胸元にスタンカの球が食い込むと、大きな音がし、バックネット方向に転がった。
すぐさま一塁に向かった島田。その後、少し間を置いての浜口球審のデッドボールの宣告に「当たってないやろ。ファウルやないか」と怒ったのが、
野村克也捕手だった。
森下整鎮は「あれはワシらもようするヤツや。当たったふりをしとるだけじゃ」と自爆気味(?)に怒鳴る。
南海・
鶴岡一人監督もベンチから出て強く抗議したが、すぐ引き下がった。
コワモテの鶴岡監督だが、1950年に判定に抗議し、試合放棄となったことがあった。その際、周囲に大きな迷惑をかけたことを反省し、以後、抗議はあまり長くならないようにしていたという。
話は終わらない。
二死満塁となった後、スタンカは
児玉弘義にまたも胸元への厳しい球。児玉は自ら「デッドボール!」と叫んだが、今度は浜口球審が「ファウルボール」。
怒ったのが、近鉄・
別当薫監督だ。「ここを見ろ」と赤くなった児玉の左手小指を審判に突き出し、判定が覆らぬと、数分後には満塁の走者をすべて引き揚げさせた。
放棄試合寸前、近鉄の選手が塁に戻り、何とか試合再開となったかに思えた。
しかし、再び審判を指さし、何か抗議していた別当監督に向かい、マウンドから2メートルの
巨人・スタンカが突進し、つかみかかり、振り回す。
すぐさま両軍入り乱れの大乱闘。近鉄の
山本八郎がバットを振り上げ、味方に後ろから抑えられている写真もあった。
さすがケンカ八だ。
スタンカは退場。制裁金5万円となったが、ほかはすべて注意のみで終わっている。これも時代だろう。

この試合は2対1で南海の勝利。退場はしたがスタンカが勝ち投手になった
スタンカは言う。
「別当監督は、いつもあんなやり方をする。僕はずっと投げ続けていないといいピッチングができない。別当監督はその癖を知っていて引き延ばしたんだ。そう思ったらカーッときて……」
一方、別当監督は浜口球審に対して、
「放棄試合にするなりなんでもやったらええ。お前、自信があるならケツまくったらどうや」
とすごみ、さぞスタンカにも怒り心頭と思ったが、試合後に聞くと、
「間を置くと肩が冷えると思ったんだろう。ジャッジの問題だから連盟へ提訴はしない」
と意外と淡々。
しかし、その後、再び浜口球審の話になると、
「うちにとって大事な同点の場面や。それを未熟な技術でパーにされたんだからな。怒るのはあたり前や。あんな審判では一生懸命やっている選手がかわいそうだ」
と再びカッカしていた。
残念ながら当時(以後もかなり長い間そうだったが)、日本の審判の権威は低かった。選手、監督は平気で審判に毒づいたが、明らかに手を出したようなケース以外は、なかなか退場にならなったし、観客が乱入し、審判を手を出すこともあった。
全員がそうだというわけではないが、審判も自分の安全を守るため、弱気になっても仕方がない。
前日扱かったバッキーの件もそうだが、「行って来い」、つまりミスジャッジで不利にさせたなと思う相手に対し、わざと有利なジャッジで返す(ように見える)ことが頻繁にあったそうだ。
それを外国人選手が見透かして、さらに“なめる”という悪循環もあったのかもしれない。
中日監督がドタバタ
低迷が続いていた
中日は6月6日、
杉浦清監督に休養の打診をしたが、「自分はベストを尽くし、チームが立ち直るよう努力する」と拒否。
しかし7日の試合後、今度は「休養命令」。
西沢道夫コーチが代理監督となることが決まった。
中日は次期監督に、東映監督ながら球団幹部、さらには選手との対立がウワサされた
水原茂が有力と書かれていたが、その実現は69年からとなる。
では、また月曜日に。
<次回に続く>
写真=BBM