今年、創刊60周年を迎えた『週刊ベースボール』。現在1日に1冊ずつバックナンバーを紹介する連載を進行中。いつまで続くかは担当者の健康と気力、さらには読者の皆さんの反応次第。できれば末永くお付き合いいただきたい。 広島事件の一部始終
今回は『1964年7月20日号』。定価は50円だ。
大洋、阪神の2強となったセ・リーグだが、今回も事件記事が大々的に扱われている。結構、長い。
6月30日、
広島市民球場で行われた広島─阪神戦がノーゲームになった。
発端は2回裏、広島の攻撃だ。無死一、二塁で
阿南準郎が送りバント。打球はふらふら上がり、前進した阪神の投手・
石川緑が捕球したかに見えたが、審判は「フェア」と両手を広げ、ワンバウンドの判定。二走の
興津立雄はあわてて三塁に走ったが、一走の
藤井弘はやや躊躇した様子で、一度塁間に止まってから二塁に走った。
石川はすぐ一塁へ。ベースカバーに入った
鎌田実は一塁を踏んでセカンドに入った
吉田義男へ投げた。常識で考えれば、ゲッツーだ。
ここで阪神ベンチが猛抗議する。
主張はトリプルプレー。「石川はダイレクト捕球した」というのがその理由だ。
審判は阪神の抗議にあっさり判定を変え、トリプルプレーとなった。
怒ったのが広島だ。
白石勝巳監督は「フェアの判定だから走者は走ったのだ」と抗議し、選手を引き揚げさせた。
途方に暮れた審判が広島ベンチに行って、
「提訴してもいいから放棄試合だけはやめてくれ」。
これに対し、白石監督はさらに激怒した。
「判定を変えて、こちらのミスだった。見逃してほしいと言いながら、こちらが放棄試合とは何事か。こっちばかりに来ず阪神ベンチに行ったらどうだ」と追い返した。
長引く中断に球場にも不穏な空気が漂い始め、警官、機動隊員100人が急きょ呼ばれる。
審判団はその後も協議を続けたが、とにかく試合再開と思ったか、ネット裏の貴賓席で球団代表と話していた阪神・藤本定義監督に「ちょっと出てきてくれませんか」と声をかけた。
すると今度は藤本監督が激怒。
「出てこいとはなんだ。用があるならそっちから入ってこい。白石のところへはのこのこ出かけていって、都合が悪くなったからといって、こっちに出てこいとはなんだ。俺は何も聞かんぞ」
時計はすでに夜9時半。審判団の申し入れで両軍の監督、代表の四者会談。審判は一死一、二塁で再開してくれないかと言ったらしいが、これに藤本監督が激高。その後も話はまとまらず、2時間29分の中断の後、ノーゲームが決まった。
いらだっていたのが観客だ。明らかな審判のミスをどうするかだっただけに、場内アナウンスも「善処しますから、しばらくお待ちください」だったらしい。
彼らのいらだちはノーゲームを場内アナウンスした後、爆発。球場が修羅場と化した。
客席にいた入場者が一斉にグラウンドに降り、阪神ベンチに突進。しかし、ベンチ前に機動隊の姿を見ると、今度は広島ベンチへ。すでに選手は避難していたが、ベンチにあったものを片っ端から破壊。別働隊は放送室に入り込み、こちらも破壊活動。深夜11時、ようやく沈静化した。

破壊された広島市民球場
球場は無残だった。内野の金網が押し倒され、とにかくありとあらゆるものが壊され、翌日からの試合も中止となった。
西鉄の
若林忠志ヘッドコーチに球団社長から休養指令が出た。
投手陣不振の責任を取らされたわけではない。初期のガン(とそのときは思われていた)を治療し、退院したが、体がどんどんやせていた。
本人は、
「グラウンドで死ぬのが本望だ」
と言ってたが、西社長は、
「自分の体に鞭を打つだけだ。絶対に休養せよ。反対は許さない」と強硬。
最後は若林も「社長命令なら仕方がない」と話していた。
では、またあした。
<次回に続く>
写真=BBM