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プロ野球1980年代の名選手

稲葉光雄 落合にクセを見抜かれても修正せずに勝負した右腕/プロ野球1980年代の名選手

 

1980年代。巨人戦テレビ中継が歴代最高を叩き出し、ライバルの阪神はフィーバーに沸き、一方のパ・リーグも西武を中心に新たな時代へと突入しつつあった。時代も昭和から平成へ。激動の時代でもあったが、底抜けに明るい時代でもあった。そんな華やかな10年間に活躍した名選手たちを振り返っていく。

小柄で細身だったが、芯は強く、そして太い


阪急・稲葉光雄


「この試合が私の分岐点であり、現役生活の開幕試合」

 こう語ったのはプロ2年目を迎えたロッテ落合博満だ。この試合とは1980年7月26日の阪急戦(札幌円山)。マウンドにいたのはプロ10年目の稲葉光雄だ。落合はカーブを投げるときに左肩が上がるクセを見つけ、その後は打ち込むように。落合は翌81年には首位打者に、その翌82年には戦後最年少で三冠王に輝き、球史に残る大打者へと一気にステップアップしていくが、クセを見破られた右腕は、それが分かっていてもクセを修正しなかった。身長174センチ、体重67キロと、プロ野球選手としては小柄で細身だったが、芯は強く、そして太かった。

 ドラフト2位で71年に中日へ入団。

「基本的に巨人でなければ、どこでもいいと思っていました。巨人戦しかテレビに映らなかったんで、いつも巨人の打線に、どう投げるかを考えていたんですよ」

 当時の巨人はV9の真っ只中。王貞治長嶋茂雄の“ON砲”も健在の強力打線だったが、8月26日の巨人戦(後楽園)に延長11回からリリーフで登板し、4イニングを被安打1、無失点に抑えてプロ初勝利を挙げる。シーズン最後の対戦となった10月3日の巨人戦(中日)では初の完封勝利も記録した。

「巨人戦になると、ものすごく闘志がわく」

 自己最多の20勝を挙げた翌72年は巨人キラーぶりを発揮して、巨人から6勝3完封。特に王と長嶋に強く、ともに24打数の対戦で、王には1本塁打を許したが打率.208、長嶋は打率.125、本塁打ゼロと抑え込んでいる。

 大型トレードで77年からは阪急でプレー。移籍1年目から17勝6敗、リーグトップの勝率.739も記録して、「僕自身が一番びっくりしています。言うことなしの1年」と声を弾ませた。以降3年連続2ケタ勝利。黄金時代後期の阪急を支えた。

 落差50センチとも言われる垂直に落ちるカーブがウイニングショットだ。手首につくまで曲げ伸ばすことができる柔らかい親指で、鋭いスピンをかけた。

「カーブのコントロール、キレが悪いと僕のピッチングは全然ダメ」

 カーブに加え、中日時代は快速球、阪急時代は投球術で打者を翻弄した。

落合に打たれても他を抑えて結果を残す


 80年は5勝に終わり、阪急もシーズン通算5位に転落。後期はカーブを落合に狙い打ちされたが、クセを直すことでフォームを崩して他も抑えられなくなるよりは良い、ということだろう。

 乱視で若手時代にナイターでメガネをかけずに投げたらサインを間違えて怒られたことがあり、試合では必ずメガネをかけていた。そんな外見もあって穏やかな印象もあるが、度胸の良さは圧倒的。左足と両腕を高々と上げて小柄な体を大きく使い、思い切りとテンポの良いピッチングで、内角を厳しく攻めるだけでなく、時にはド真ん中にも投げ込むスタイルは一貫していた。

 落合が初の首位打者になった81年は、復活の2ケタ11勝を挙げ、防御率2.93もリーグ2位。やはり落合には打率.429と打ち込まれたが、しっかりと結果を残して阪急の復活に貢献した。だが、その後は徐々に失速。83年はゼロ勝に終わり、阪急も世代交代の動きを加速させる。ここで、かつての巨人キラーに注目したのが阪神をはじめとするセ・リーグの球団だった。争奪戦になったが、西宮に自宅があったため、在阪の阪神へ移籍。

「残り少ない野球人生を悔いのないように」と語ったが、新天地では一軍登板のないまま、84年限りで現役を引退した。

 その後は中日、日本ハムで指導者を歴任。2009年には落合が監督を務めていた中日に復帰して、投手王国の土台を築き上げた。11年限りで落合監督は退任。翌12年8月、二軍の試合中に倒れ、急逝した。葬儀には中日ナイン全員がユニフォーム姿で参列。名コーチとの早すぎる別れを惜しんだ。

写真=BBM
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