『ベースボールマガジン』で連載している「現役を引退してから別のお仕事で頑張っている元プロ野球選手」のもとをパンチさんが訪ね、お話をうかがう連載です。今回は元オリックス外野手で(パンチさんと時期は重なっていません)、現在はさいたま市でバッティングセンターを経営する高見澤考史さんをお訪ねしました。 出来高達成させてくれた仰木さんには感謝しかない
社会人野球の名門・東京ガス時代は自身、都市対抗に2度出場。2000年秋、ドラフト6位でオリックスに指名を受けた。当時、オリックスが試みた『契約金ゼロ』枠で入団したことでも、話題を呼んだ。
50メートル6秒台前半の俊足を武器に、1年目から一軍へ。01年にメジャー入りした“
イチローの穴を埋める”俊足巧打の外野手として大いに期待され、2年目には62試合で打率.279の成績を残した。
パンチ 高見澤君はイチローの「後継者」と言われたよね。あのときは、どんなふうに思っていたの?
高見澤 僕は入団の仕方からして話題になりましたし、そこからイチローさんの“後釜”とも言っていただきましたけど、やはり簡単にはいかないですよね。とにかく必死でした。“抜く”なんてこともまずできなかったので、毎日パンパンな中で、とにかく練習をしていました。
パンチ そうか〜。俺はさ、プロ初日の練習で「バッティングはなんとかなりそうだな」と感じたの。ただ、守備と足はすでにダメだと思ったんだ。
高見澤 僕は守備と足は大丈夫だったんですが、バッティングのほうが人より劣っているのを練習の時点で感じましたね。ボールのつかまえ方っていうんですか。バットでボールをとらえたとき、バットがうまく前に出ない。自分の思ったより、ヘッドの出てくるのが遅かったんですね。力ではなく技が足りていないことが、ショックでした。
パンチ 当時の打撃コーチは誰?
高見澤 立花(義家)さん、石毛(宏典=監督)さん……。
パンチ 石毛さんの打ち方は空手の型みたいでしょ。難しくなかった?
高見澤 その打ち方はしていないんですが、「つかまえる」感覚が分かってきたのが、石毛さんのときでしたね。
パンチ オリックス時代の良い思い出はなんですか。
高見澤 仰木(彬=監督)さんですかね。『契約金ゼロ』の僕を仰木さんだからこそ使ってくれて、出来高をいただける形を作ってくださった。そこはまず、感謝しかありません。
パンチ 出来高というのは、どういう条件だったの?
高見澤 ベンチに10日入ると、出来高が加わるんです。そこで、代走から使っていただきました。出来高を達成してベンチに帰り、監督さんに「これでベンチにいる選手とご飯でも行ってきなさい」と言われたときは、本当にグッときました。やっとベンチのメンバーの1人になったような。それが一番の思い出です。
パンチ 2年目、松坂(大輔=当時
西武)から打ったプロ初ヒットとなるホームランはどう?
高見澤 あれも大きな出来事ですけど、自分で「打った」という感覚がないんですよ。最後、もう真っすぐだろうって思って、えいやっとバットを出したら、(ホームランが)出たってだけで。打席でも、足がメッチャ震えていました(笑)。
パンチ その2年目は、クリーンアップも任されたんだよね。3年目は故障?
高見澤 2年目が終わって3年目に入るタイミングで、ヒジを故障したんです。これはもうアウトだろうなって思っていました。
パンチ なんでやっちゃったの?
高見澤 最初は1年目のキャンプのときでした。朝、顔を洗っていたら、ヒジがロックされてしまったんです。そこから3回、手術をしました。ピッチャーでもないのに(苦笑)。
パンチ 今思えば、何が原因だったのかな?
高見澤 アピールし過ぎ。投げるのが好きだったんですよ。投げてばかりいましたから。
パンチ じゃあ、寿命だ。もうすり減っちゃったんだ。
高見澤 そうですね。随分冷やかされました。外野なのに、トミー・ジョンかよって(笑)。
パンチ それで、球団に呼ばれて、「来年はもう契約しない」と。トレードの話もなかったの?
高見澤 まったくないです。ケガの最中で、ようやく打ち始めたくらいでしたからね。これで終わったな、と思いました。……まあ、そりゃあ終わりますよね。その後、東京ガスに帰って練習をさせてもらい、韓国とかどこかで野球を続ける方向を模索していくことになりました。
現役続行の道を探るも……
現役時代は右投げ左打ちの外野手。イチローの渡米と入れ替わりでオリックスに入団し、後継者として期待された
パンチ 回復の見込みは大いにあったんだね。
高見澤 はい。それで東京ガスの練習にだけ参加させてもらっている最中に、また腰をやってしまい……。
パンチ 「やめろ」ってことだったのかな。
高見澤 その前にやめておけばよかったんですけど、やめられず、練習を続けて、ついに椎間板ヘルニアが出てしまいまして。もう終わりです。「野球はできないよ」と言われました。
パンチ さて、どうしよう。
高見澤 まずカミさんに話して、とりあえず手術をしなければいけなかったので、入院の準備です。そうしたら入院中、カミさんが新聞の折り込みチラシをもってきたんです。「野球関係の会社が社員さんを募集しているよ」と。それが、この会社でした。
パンチ たまたま新聞に入っていたんだ!? ホント、野球の神様っているんだなと思うよ。
高見澤 今になってみれば、あそこで終わっていてよかったのかもしれませんね。
パンチ そういうゼロからのスタートというのが、変なプライドとかが邪魔をしてできない人もいるじゃない? 性格と言ってしまえばそうかもしれないけど、そんな屈辱感や恥ずかしさはなかった?
高見澤 それはまったくなかったですね。仕事をいただけて、ありがとうという感じです。
パンチ 当時のオーナーさんはどんな方?
高見澤 ジャイアンツが大好きで、僕のことは知らなかったんですが、「プロ野球やっていたの?」というところから調べてくださって。
パンチ まさか元プロ野球選手が来るとは思わなかっただろうからね。
高見澤 思わなかったみたいですね。僕のほかにも10人くらい応募があったんですが、「そんな人がいるんだったら」ということで、さっそく「明日から来ない?」と言っていただきました。
<「2」へ続く>
●高見澤考史(たかみざわ・こうじ)
1975年4月30日生まれ、群馬県出身。前橋工高から東京ガスを経て、ドラフト6位で2001年オリックスに入団。2年目の02年には62試合に出場、打率.279の成績を残すも、故障により03年限りで引退。通算成績は68試合、打率.269(43安打)、4本塁打、26打点。その後は「アーデルバッティングドーム」の社員に転身したのち、経営権を買い取りオーナー社長に就任、現在に至る。
●パンチ佐藤(ぱんち・さとう)
本名・佐藤和弘。1964年12月3日生まれ。神奈川県出身。武相高、亜大、熊谷組を経てドラフト1位で90年オリックスに入団。94年に登録名をニックネームとして定着していた「パンチ」に変更し、その年限りで現役引退。現在はタレントとして幅広い分野で活躍中。
構成=前田恵 写真=高塩隆