1980年代。巨人戦テレビ中継が歴代最高を叩き出し、ライバルの阪神はフィーバーに沸き、一方のパ・リーグも西武を中心に新たな時代へと突入しつつあった。時代も昭和から平成へ。激動の時代でもあったが、底抜けに明るい時代でもあった。そんな華やかな10年間に活躍した名選手たちを振り返っていく。 85年に遊撃手トップの41本塁打
「1試合1エラー、1ホームランがテーマ」
と笑う。笑っている場合ではないと怒られることもなく、それどころか、それにつられて周囲も思わず笑ってしまう。そんな“大物感”あふれる大型遊撃手が中日の宇野勝だ。
それまでの遊撃手は小柄でシャープな選手が多く、打力がなくても大目に見られて“専守防衛”とも言われたが、長打力を売り物とする異色のショートストップとして台頭。1985年の41本塁打は遊撃手としては歴代トップだ。リーグ最多失策も7度(うち1度は主に二塁手として)を数える遊撃守備も意外や意外、捕球には堅実さに欠ける部分があったが、グラブにボールが入ってしまえば、素早く持ち替えて強肩を発揮、見事にファンの独特な“期待”を裏切って見せた。
ドラフト3位で77年に中日へ。確かに、当時は180センチと大柄だったこともあり、遊撃守備は目を覆うほど動きが鈍かった。だが、
一枝修平コーチがマンツーマンで徹底的に指導。3年目の79年に遊撃の定位置をつかんだ。
80年に初の規定打席到達。翌81年に25本塁打を放ち、打順もクリーンアップに定着した。その特徴を見事につかんだ“宇野ちゃん人形”もスタンドに登場したVイヤーの82年に初めて大台を超える30本塁打。リーグ最多失策を前年までの4年連続でストップさせた83年は27本塁打にとどまり、初めてリーグ最多となる97三振を喫するが、翌84年は8月に本塁打の量産体制に入る。
7月までは阪神の
掛布雅之に7本のリードを許していたが、8月だけで15本塁打を放って単独トップに。最終的には掛布が追いつき、ともに37本塁打で迎えた最終戦2試合、10月3日、5日の阪神戦(ナゴヤ)では対決を避けられ、ともにプロ野球記録を更新する10打席連続四球。掛布と本塁打王のタイトルを分け合った。続く85年には2年連続リーグ最多、自己最多の117三振も、自己最多の41本塁打。だが、三冠王に輝いた阪神のバースが放った54本塁打には及ばず、
「ホームラン王を狙ってたんですけど、バースときたら人間ではない。まるで怪物。来年こそタイトルを奪い返す」
しかし、翌86年は10本塁打と急失速。それでも、その翌87年には30本塁打と復活した。新人の
立浪和義に遊撃の座を譲った88年には18本塁打にとどまったが、二塁手、そして選手会長としてもリーグ優勝に貢献。西武との日本シリーズでは敢闘賞にも選ばれた。遊撃に戻った89年には25本塁打と長打力も復活。初めて打率3割も超えた。だが、93年に移籍した
ロッテでは定位置に届かず、94年限りで現役引退。ロッテでは、わずか4本塁打だった。
球史に残る“プレー”
やはり、この“事件”に触れないわけにはいかないだろう。本当は“事件”ではない。だが、そう言われるほどの“事件性”があったことも確かだ。81年8月26日の巨人戦(後楽園)、マウンドには
星野仙一。
山本功児のフライを追いかけたが、目測を誤り、打球はグラブではなく、額に。勢いを失わず左翼フェンスへ転がっていく打球に加え、いつもは“主役”の星野が“燃える男”のパブリックイメージそのままに、グラブを叩きつける絶妙なコメディーリリーフ。単なる1エラーを球史に残る珍プレーへと昇華させた。この“ヘディング事件”によって、プロ野球の珍プレーを特集したテレビ番組が作られるようになったとも言われる。
これで一躍、人気者となったが、82年4月24日の大洋戦(横浜)ではユニフォームを忘れ、コーチのものを借りて登場。84年5月5日の大洋戦(横浜)で一死満塁から右翼手の失策で出塁して、一走を追い抜いたこともある。
「心がけていたのは中途半端なプレーはしたくないということ。スイングはフルスイング。だからバットとボールが1メートル離れて空振りした次の投球をホームランにできたんだろうね」
打撃は当然、本塁打か三振かのフルスイング。守備で相手の打球が定位置の遊撃に飛べば、中日ファンは固唾をのんで見守り、プロ野球ファンならずとも“何か”を期待したことだろう。攻守走すべてで“何か”をやってくれそうな、一瞬たりとも目が離せない好プレーヤーだった。
写真=BBM