1980年代。巨人戦テレビ中継が歴代最高を叩き出し、ライバルの阪神はフィーバーに沸き、一方のパ・リーグも西武を中心に新たな時代へと突入しつつあった。時代も昭和から平成へ。激動の時代でもあったが、底抜けに明るい時代でもあった。そんな華やかな10年間に活躍した名選手たちを振り返っていく。 80年代きっての走塁のスペシャリスト
プロ野球の華がホームランであることは確かだろう。豪快なフルスイング、美しい弧を描いてスタンドに飛び込む打球、ダイヤモンドを一周してベンチでチームメートに迎えられる姿など、いずれも絵になる光景だ。ソロでも一瞬にして1点を稼げる。満塁なら4点で、効率も抜群だ。
だが、長距離砲ばかりを打線に並べてみても、優勝に結びつくとは限らないのがプロ野球の醍醐味でもある。巨人V9には
柴田勲、阪急の黄金時代には
福本豊がいた。
広島の黄金時代を、機動力野球を抜きに語ることはできない。機動力というスピード感あふれる地道な積み重ねが、優勝への近道となったケースは少なくない。
21世紀に入って、巨人の
鈴木尚広が“走塁のスペシャリスト”として脚光を浴びたが、機動力に特化した選手は古くからいた。いささか極端な例になるが、
ロッテの
飯島秀雄は陸上選手からプロ野球選手に転身して117試合で23盗塁も、打席には1度も立っていない。現役生活は3年のみで、プロ野球選手として成功したとは言い難いだろう。
1981年にセ・リーグで盗塁王に輝いたヤクルトの青木実も、そんな1人だった。社会人の日産自動車から76年に入団したものの、
「最初に神宮へ行ったとき、
杉浦亨さん、
大杉勝男さんが打撃練習をしていたんですが、音が違う。大変なところに来たな、と思いましたね。あとで考えれば、この2人は特別だったんですが」
3年目の78年にヤクルトは初優勝、日本一に。91試合に出場したが、ほとんどが代走と、守備に不安のあったマニエルの守備固め。打っては5安打にとどまった。ただ、
「俺は足で勝負するしかない」
と、必死に走塁技術を研究した。走っては15盗塁。阪急との日本シリーズでは福本と話をするチャンスにも恵まれ、
「福本さんからも『投手には必ずクセがある。見ておけば役に立つ』と言われました」
と振り返る。ベンチで出番を待っているときが、投手のクセを研究する絶好の機会だった。
陸上の短距離走を参考に、スパイクも軽めで、やや金具も前にするなど工夫した。リードは4歩半で、重心は左右とも五分五分。牽制で戻るときは頭から。もともと100メートル11秒1とスピードは抜群で、
「自分より早いと思ったのは
屋鋪要(大洋)だけ」
と自信。いかに早くトップスピードに入れるかの練習を繰り返した。盗塁の最後となるスライディングでも、いかにスピードを落とさないかを試行錯誤。尻を下にするとスピードが落ちることに気がつき、尻はブレーキ専用として、太ももの横を地面に滑らせた。
81年に僅差で盗塁王に輝くも……
持ち前のスピードを利した守備範囲の広さだけでなく、強肩も兼ね備えて、外野守備でも群を抜いていた。やや前で守ったのは、後方への打球に追いつく自身があったからだ。
「左足を前に出した半身の姿勢で待ち、投手が投げたら、つま先立ちに。後ろの打球なら、そこから回転して追います。フェンスの位置も打者の傾向も頭に入っていましたね」
だが、翌79年シーズン途中に
広岡達朗監督が退任すると、出場機会を減らしていく。
迎えた81年も代走からスタートしたが、
若松勉、
スコットと外野陣故障者が続出したことで、5月30日の
中日戦(ナゴヤ)で一番打者として先発出場を果たすと、第1打席で二塁打を放って勢いに乗り、そのまま3安打1盗塁。以降13試合連続安打とバットも加速していった。
最終的には34盗塁で、巨人の
松本匡史と1盗塁の差で戴冠。だが、バットが湿ると途端に出番が減り、打撃の不振は走塁にも悪影響を与えていく。83年には11盗塁をマークしたが、翌84年に急失速、続く85年は8試合の出場に終わり、盗塁もゼロ。オフ現役を引退した。
「内角打ちをやっているうちに、得意だった外角も打てなくなってきた。僕は打撃に信念がなかった。それが後悔ですね」
写真=BBM