背番号は、ある選手が引退しても、またある選手に受け継がれていく。2019年も新たな後継者が誕生した。その歴史を週刊ベースボールONLINEで振り返っていく。 空前絶後の“怪物”
巨人の“怪物”江川卓が強烈なインパクトを放つ。着けた期間は短いが、後にも先にも、投手にも打者にも、これほどの痕跡を残した選手はいないだろう。大騒動の末に巨人へ入団し、快速球で真っ向勝負を繰り広げ、あっけなく去っていった。その同時期、1980年代のセ・リーグには投打に名選手が並ぶ。同じ投手で
中日には若手時代の
郭源治が、ライバルの
阪神には巧打者の
平田勝男がいた。
その後の中日では巧打の助っ人パウエルを経て
森野将彦が着けたが、かつては同様に背番号の変更を繰り返した
板東英二がいた。入団した59年から2年だけ着け、阪神や
広島で初代の監督となった石本秀一がコーチとして加入したことで「14」となったが、その退団で63年から「30」に戻し、また2年だけで「14」となっている。
阪神では移籍してきたパウエルが1年だけ着けてから、若手時代の
藤川球児を経て
久保田智之が継承する強力リリーバーのリレーに。
ロッテのクローザーとして“幕張の防波堤”と呼ばれた
小林雅英はメジャーでも「30」でプレーし、巨人で江川の後継者となった。
【12球団・主な歴代「30」】
巨人 藤本定義(監督)、
水原茂(円裕。監督)、江川卓、
橋本清、
宮國椋丞☆
阪神 石本秀一(監督)、
若林忠志(兼任監督、監督)、平田勝男、久保田智之、
石崎剛☆
中日 池田豊(監督)、天知俊一(監督)、郭源治、パウエル、
阿知羅拓馬☆
オリックス 山下実(兼任監督)、
上田利治(監督)、
戎信行、
相川良太、K-鈴木☆
ソフトバンク 高須一雄(監督)、山本(鶴岡)一人(兼任監督、監督)、
長谷川勇也、
武田翔太、
市川友也☆(2018年シーズン途中~)
日本ハム 横沢三郎(監督)、水原茂(監督)、
津野浩、
金子誠、
鍵谷陽平☆
ロッテ
苅田久徳(兼任コーチ)、
森田芳彦、小林雅英、
伊藤義弘、
大嶺祐太☆
DeNA 中島治康(兼任監督・助監督)、
宮崎剛(コーチ、監督代行など)、
友利結(デニー友利)、
土肥義弘、
飯塚悟史☆
西武 宮崎要(兼任監督、外野手)、
伊原春樹、
広橋公寿、
岡本洋介、
榎田大樹☆
広島 石本秀一(監督)、
白石勝巳(兼任監督、監督)、
小川達明、
音重鎮、
玉木重雄、
一岡竜司☆
ヤクルト 西垣徳雄(監督)、
宇野光雄(監督)、
君波隆祥(威嘉)、
山部太、
西田明央☆
楽天 紀藤真琴、玉木重雄、
永井怜、
長谷部康平、
池田隆英☆
(☆は2019年)
偉大なる名将たち

阪急・上田利治監督
古くは監督の背番号。その系譜には伝説の名将たちが並ぶ。チームだけでなく、現在まで続くプロ野球の礎を築いた功労者たちだ。
プロ野球が始まって3年目となる38年に連盟から「背番号は30番まで」という通達があり、その最大ナンバーとして監督が「30」を着けた、という説が有力で、指導者のイメージとなったためか、しばらくは「30」のコーチもいた。指揮を執りながら選手としてもプレーした監督も少なくない。
一方で、選手の背番号のまま指揮を執る兼任監督も増えてきて、徐々に「30=監督」という方程式は崩れていく。最後までこだわったのが阪急の上田利治監督で、オリックスとなった90年まで「30」で指揮を執り続けた。
選手としての最初は巨人の
千葉茂で、ルーキーイヤーの38年に1年だけ着けている。連盟から通達があった年に最大ナンバーを背負った新人がいたことになるが、その初代は総監督だった浅沼誉夫。藤本定義や水原茂(円裕)らの名将や江川は千葉の後継者になる。
写真=BBM