1980年代。巨人戦テレビ中継が歴代最高を叩き出し、ライバルの阪神はフィーバーに沸き、一方のパ・リーグも西武を中心に新たな時代へと突入しつつあった。時代も昭和から平成へ。激動の時代でもあったが、底抜けに明るい時代でもあった。そんな華やかな10年間に活躍した名選手たちを振り返っていく。 “猛虎”の日本一を呼び込んだゲイル

阪神・ゲイル(左)、キーオ
迎えた2019年に在籍10年目となる阪神の
メッセンジャー。すでに7度の2ケタ勝利をマークしている右腕だが、猛虎の“助っ投”は歴史が古く、助っ人という考え方がなかった時代から、外国人の投手たちがチームに貢献してきた。
2000年代には“JFK”の一角を担ったリリーバーのウィリアムスがいたが、さらに古く、阪神の創設に参加してチーム通算最多の233勝を挙げた
若林忠志はハワイ出身の日系アメリカ人だ。V9に突入していくライバルの巨人に牙をむいたのがバッキー。その後は全体的に外国人選手は打者が中心になっていったが、“猛虎フィーバー”のあった1980年代、その85年のリーグ優勝、日本一に貢献した“助っ投”がゲイルだ。
198センチという長身で、
吉田義男監督との“凸凹コンビ”だけでなく、天井の低い日本のベンチで頭をぶつけても大丈夫なように練習中にもヘルメットをかぶっていた姿も印象に残る。メジャー通算55勝の現役メジャー・リーガーだが、いま以上にメジャーの投手といえば剛速球というイメージがあった当時、長身を利して上から投げ下ろすだけでなく、時にはスリークオーターから投げることもある技巧派で、スライダーやシュート、チェンジアップなど変化球を主体としたピッチングで、来日1年目のキャンプでは「期待はずれ」という声もあり、「
ブーマー(阪急)は2メートルといっているが、実際にはゲイルのほうが高いはず」と球団関係者が発言するなど、身長の話題ばかりが先行した。
ところが、開幕第2戦から来日初勝利を挙げると、4月は3試合に登板して2勝1敗。チームメートのバースからの「ニッポンの野球に順応すること」というアドバイスに従い、1球ごとに投げ方を工夫、そして“宙吊りトレーニング”なる独特なトレーニング法も実践して、その後も順調に勝ち星を積み上げていく。機動力のある
広島と大洋は苦手としたが、ライバルの巨人戦では2試合連続完封も。後半にはロイヤルズが優勝した80年と同様にヒゲをたくわえるなどゲンもかついで、9月には2ケタ10勝に到達。外国人投手が来日1年目に10勝を挙げるのは
スタンカ(南海)以来25年ぶりのことだった。
11日の大洋戦(横浜)ではマジック22を点灯させる11勝目。優勝決定試合となった10月16日の
ヤクルト戦(神宮)にも先発した。最終的には13勝。西武との日本シリーズでは第2戦(西武)、第6戦(西武)に先発。第6戦では完投して胴上げ投手にもなっている。
だが、翌86年は、前年にエース級の結果を残しながらも開幕第3戦の起用だったことに反発、たびたび吉田監督とも衝突するようになり、成績も急降下。オフに解雇された。
“ダメ虎”を支え続けたキーオ
帰国したゲイルに代わって来日したのがキーオだった。68年に南海でプレーした内野手の
マーティ・キーオの息子で、メジャー5球団でプレー。アスレチックスでは3年連続2ケタ勝利の実績はゲイルに負けず劣らず。敗戦投手となったものの、来日1年目から開幕投手を任されるなど、大いに期待された。
優勝するだけの戦力を備えていた85年に来日したゲイルとは対照的に、そこから急失速していった阪神にあって、来日1年目からチーム最多の11勝を挙げたことは、数こそゲイルに及ばないものの、価値のあるものだったといえるだろう。阪神は以降2年連続で最下位に沈み、“猛虎フィーバー”から一転、“ダメ虎”と揶揄されるようになっていったが、来日2年目は12勝と勝ち星を伸ばし、リーグ6位の防御率2.76をマークする。
日本でのキャリアハイとなる来日3年目の89年も孤軍奮闘だった。クローザーの
中西清起が先発に回るなど先発ローテーションが機能しない中で、鋭いカーブを武器に15勝9敗と貯金も稼いで、阪神の最下位脱出に貢献。崩壊した投手陣にあって、名実ともにエースとしてチームを支える存在だった。
だが、翌90年は故障もあって精彩を欠き、7勝にとどまると、オフに解雇された。
写真=BBM