平成元年、阪急ブレーブスからオリックス・ブレーブスに変わってスタートし、1991年に神戸移転とともにオリックス・ブルーウェーブに。さらに2005年には近鉄と合併し、オリックス・バファローズとなった。グラウンド外での激動の中で、イチローを軸とした95、96年の連覇はまばゆい光を放っている。 「がんばろうKOBE」で95年リーグV、96年日本一

95年、リーグ優勝祝勝会で仰木監督とイチローが歓喜の抱擁
平成元年、1989年は期せずして阪急ブレーブスからオリックス・ブレーブスになった初年度だった。開幕直後から8連勝。開幕5試合連続本塁打の
ブーマーを軸に
松永浩美、
藤井康雄、さらに南海から移籍の
門田博光が大当たり。一時は独走でV街道を走るも、投手陣の不安定さもあって、2位に終わった。ドライチだったパンチこと、
佐藤和弘のユニークなトークもインパクト大だった。90年も「ブルーサンダー打線」の破壊力は変わらず、186本塁打、690得点はリーグトップ。翌年から本拠地を西宮からグリーンスタジアム神戸に移転し、愛称もファンから公募したブルーウェーブにすることを決めた。
阪急時代から継続して指揮を執っていた
上田利治監督から
巨人OBの
土井正三が監督に代わったのが、91年。大技主体の野球からスモールベースボールへの変換を図ったが、必ずしも成功したとは言えない。
星野伸之が16勝、新人の
長谷川滋利が12勝で新人王。打者では、わずかの差で松永が首位打者を逃した。92年も3位。ただ、1位に18ゲーム差はいただけない。さらに土井監督3年目の93年も3位。松永とのトレードで
阪神から加わった右腕・
野田浩司が17勝を挙げ、近鉄・
野茂英雄とタイで最多勝を獲得した。土井監督は3年連続V逸の責任を取って退任。
仰木彬監督1年目、94年は登録名を鈴木一朗から変えたイチローが主役だった。驚異的なペースでヒットを積み重ね、史上初の200安打も単なる通過点にし、210安打まで伸ばした。先発オーダーはシーズンで121通りと、自在の采配を駆使した仰木マジックも光った。
95年は1月17日の阪神・淡路大震災で本拠地・神戸が大きな被害を受けた。チームもスタートダッシュに失敗したが、5月から調子を上げると、6月に大型連勝を繰り返し、独走態勢を固めた。アベレージに加え、長打力も増し、三冠王にも迫ったイチローのバットも大きかったが、
鈴木平から
野村貴仁、2年目のクローザー、
平井正史につなぐ勝利の方程式は安定感があった。40歳の
佐藤義則がノーヒットノーラン、野田の1試合19奪三振もあった。日本シリーズでは、
野村克也監督率いる
ヤクルトと対戦。イチローを封じられ、敗退。
96年は前半戦こそ
日本ハムの後塵を拝したが、8月半ばから猛スパート。マジック1となった神戸での日本ハム戦は、延長10回、イチローのサヨナラ二塁打で優勝が決定した。イチローは打率.356で3年連続首位打者。
ニールは本塁打王、打点王、星野伸之は10年連続2ケタ勝利となる13勝を挙げた。日本シリーズでは劇的なメークドラマで勝ち上がった巨人を4勝1敗で撃破。胴上げは、またも神戸だった。
長く優勝から遠ざかるも14年はVにあと一歩

2014年は優勝まであとわずかに迫りながら最終戦で涙
97年も前半はゲーム差なしながら首位で折り返し、一時は
西武を突き放したかに思えたが、失速し2位に終わった。216打席連続無三振の記録を作ったイチローは史上2人目の4年連続首位打者。98年は3位には食い込んだが、58年の
広島以来、40年ぶりに規定投球回に1人も到達しなかった。翌99年も3位。イチローを四番に据える新オーダーで挑んだ00年は、前半戦は首位争いを演じたが夏場から徐々に失速。4位に終わった。オフ、イチローは7年連続首位打者を手土産にポスティングシステムによるメジャー移籍を表明した。01年も前半は首位を狙える位置にいたが、4位。仰木監督は退任した。
石毛宏典監督となった02年はチーム史上ワーストの勝率.365で、首位とは39ゲーム差の最下位に。巻き返しに向け、新外国人、
中日から
山崎武司、メジャーから
吉井理人らを補強した03年も最下位が続き、4月23日、わずか20試合で石毛監督は電撃解任。後任にはレオン打撃コーチが昇格したが、2年連続最下位だった。
伊原春樹監督を迎えた04年も首位に29ゲーム差を離されての最下位。そのオフ、近鉄と合併。「オリックス・バファローズ」となった。05年は復帰した仰木監督の指揮下でそれなりの戦いは見せたが4位に。オフ、仰木監督は退任し、死去。翌06年は
中村勝広監督となり、
清原和博、
中村紀洋が加わった打線が期待されたが、思うように機能せず、5位に終わった。
コリンズ監督を迎えての07年は最下位。08年は開幕からの不振もあってコリンズ監督が5月に辞任し、
大石大二郎ヘッドが監督代行となった。そこからチームは急上昇し、2位に。初のCS進出も果たしたが、第1ステージで日本ハムに敗れている。ローズ、
カブレラ、ラロッカに加え、フェルナンデスを補強し、優勝候補に挙げる声もあったが09年だが、振るわず“定位置”の最下位となった。
岡田彰布監督を迎えた10年は
坂口智隆、本塁打王にもなった22歳の
T-岡田らの活躍もあって交流戦初優勝も、その後失速し5位。
金子千尋が17勝で最多勝となった。翌11年は金子、
寺原隼人、
西勇輝が2ケタ勝利、中継ぎの
平野佳寿、抑えの
岸田護もはまったが、3位西武に1毛差で及ばず4位に終わった。12年は最下位。途中、岡田監督が休養し、
森脇浩司が指揮を執った。13年も金子が15勝を挙げ、
佐藤達也が最優秀中継ぎ賞など投手陣が光ったが、打線が今一つで5位に。
14年は金子と西の先発二本柱に中継ぎの佐藤達、抑えの平野らが機能。9月25日には2位ながらマジック7が点灯した。しかし勝てばマジック1、負ければ2位の10月2日、
ソフトバンク戦ではサヨナラ負け。翌15年は5位、森脇監督が休養し、
福良淳一監督に。その後、6、4位で19年は
西村徳文監督が指揮を執る。
写真=BBM