低迷阪神の救世主候補
松井秀喜のプロとしてのキャリアは、26年前の大型連休中に始まった。
1993年(平成5年)5月1日に
長嶋茂雄監督が一軍初昇格を決断すると、さっそく東京ドームで名将・
野村克也率いる
ヤクルトとの一戦に「七番・左翼」でスタメンデビュー。第2打席でタイムリー二塁打を放ちプロ初安打・初打点を記録。いきなりお立ち台に上がり、翌2日には一軍7打席目でヤクルト・
高津臣吾から弾丸ライナーの一発をライトスタンドに突き刺した。この
巨人vs.ヤクルトのテレビ視聴率は32.2パーセント、9回裏に本塁打をかっ飛ばした午後9時5分の瞬間最高視聴率はなんと39.7パーセントまで達する。当時、世の中では2週間後に開幕するサッカーのJリーグが大きな話題に。つまり、18歳の松井のホームランにはプロ野球界の未来が託されていたわけだ。
さて、平成助っ人の大型連休の印象的なシーンと言えば、97年の「GWはGW」現象を思い出す野球ファンは多いのではないだろうか? 22年前、“ゴールデンウィークに猛威をふるったグリーンウェル竜巻”の意味で使われた「GWはGW」と直後の「神のお告げ騒動」とはなんだったのか? 今回は当時の『週刊ベースボール』をもとにあらためて振り返ってみよう。
マイク・グリーンウェルはレッドソックス一筋、12年間で5度の打率3割、通算打率.303、130本塁打、1400安打という堂々たる成績を残し、97年に阪神が獲得した現役バリバリの大リーガーだ。来日時、33歳と脂の乗りきった年齢で、もちろん2年連続最下位と低迷するチームの立て直しを期待されての入団だった。近鉄、
西武も獲得レースに参戦し、当初は西武と契約寸前までいったが、阪神が「2年契約、球団史上最高の年俸300万ドル(約3億6000万円)」の好条件を提示して逆転獲得にこぎつける。同オフにFAの
清原和博の獲得に「タテジマをヨコジマに変えてでも」と乗り出すも、巨人との争奪戦に敗れ、最後の救世主候補として選ばれた助っ人スラッガーである。
来日の9年前、週べ1988年9月26日号には「88シーズンを沸かせるビッグ・リーグの主役たち」として、当時25歳のグリーンウェルが紹介されている。82年ドラフトでレッドソックスに3巡目で指名され入団。87年には大リーグで打率.328、19本塁打、89打点の好成績を残し、10歳上のスター選手ジム・ライスから左翼のポジジョンを奪い取る。88年はキャリアハイの119打点を記録。間違いなく、グリーンウェルはボストンの若きニューヒーローだった。
そんな男が日本球界へやってくる。大物大リーガーの入団に盛り上がる関西マスコミ。高まるファンの期待。球団も神戸市内に2戸分の壁をぶち抜いた200平方メートルの超豪華マンションを用意。今のようにインターネットも普及していなければ、動画サイトもなかったので、新外国人選手の詳細な情報は実際に来日するまで分からない。2年前に肩を手術し、死球で親指を痛め、慢性的にヒザに故障を抱えることが報じられるのは、もう少し後のことである。
合流直後に活躍も……

5月10日の巨人戦で自打球を右足甲に当てて負傷した
グリーンウェルは紺と白の革ジャン、ウエスタンブーツにテンガロンハットという往年のスタン・ハンセンのような格好で安芸キャンプに合流するも、11日の練習を最後に米国に残した所用のため一時帰国。22日に再来日してオープン戦に合流予定も、背中と腰の痛みが発生したと延期を申し出るFAXが届き、なんと戻ってきたのはとっくに開幕した後の4月30日だった。
しかし、ここで元メジャー・リーガーは意地を見せる。来日3日後の5月3日、甲子園の
広島戦に「五番・左翼」で初登場した背番号39は、広島のルーキー・
黒田博樹から2打席目にタイムリー。三塁打もかっ飛ばし、2安打2打点の活躍でお立ち台に。続く4日の広島戦も満塁の場面でライト前へ勝ち越しのタイムリーを放つなど、2試合連続で勝利に貢献。5日はチームは敗れたが、3試合連続で打点を挙げた。
さすがミスター・レッドソックスの勝負強さと虎党が盛り上がったのも束の間、10日の巨人戦(東京ドーム)で4打席目に内角スライダーを強振した際に自打球が右足甲を直撃。ここで即交代したようなイメージも強いが、直後に苦痛に顔を歪めながらも左打席に戻ったグリーンウェルは遊撃への併殺打に終わる。
翌11日の試合前に都内の病院で検査を受けるも「打撲」の診断で、その夜の巨人戦にも先発出場。4試合ぶりのヒットとなる内野安打を放つが、痛みが引かず12日に岡山へ移動した際に市内の病院で再検査を受けると骨折が判明。13日のチームドクターの診断も「右第二中足骨骨折、全治4週間」でファイナルアンサー。この結果を受けてグリーンウェルは三好一彦球団社長との会談を要望。引退を申し入れ、5月14日午後に甲子園球場内のOBルームで、右足にギプスを巻いたまま、あの有名な退団会見を開くわけだ。
「骨折は、私に野球から身を引けという神のお告げ。身を引く潮時だ、というメッセージだった」
日本球界行きはリタイア後の生活の準備期間

5月14日、甲子園球場内のOBルームで退団会見を行った
電撃退団と34歳目前での早すぎる現役引退の真相は、元阪神の
セシル・フィルダーから聞かされた日本球界の内幕話でヤル気をなくしたとか、『週刊文春』ですっぱ抜かれた「安芸の市営球場で見た和式便所に恐れをなした説」までさまざまな原因がささやかれたが、週ベ97年6月2日号掲載の『電撃退団!! 消えたグリーンウェルのミステリー』特集で裏側が詳しく書かれている。
2月にキャンプを離れる際、「私は農場とアミューズメントパーク、レーシングチームを持っている。ビジネスの用事があるんだ」とサイドビジネスについて語ったグリーンウェルだったが、なんと途中離脱も入団条件の1つだったという。米国フロリダ州アルバの自宅では、甲子園が22個も入る広大な敷地でさまざまなビジネスを展開。つまり、日本球界行きはリタイア後の生活の準備期間。退団会見で「野球は十分にしてきた。これからは家族と過ごしたい」というセリフは本音だったのである。
しかも、グリーンウェルの代理人はジョー・スロバ氏。この名前を聞いて消えたミステリーの謎が点と線でつながったオールドファンもいるかもしれない。そう、95年にダイエーとトラブルを起こしてシーズン途中に帰国した
ケビン・ミッチェルと同じ代理人なのである。要は阪神はカモにされ……いや“つかまされた”わけだ。
大物助っ人に振り回された阪神は6月まで借金1で3位につけていたが、後半失速し借金11の5位に終わった。退団会見で報道陣からの「慰留はしたのか?」という問いに、「彼の気持ちをくみ、意思を尊重した」と繰り返した三好社長。なお、退団後の契約解除による交渉は阪神とグリーンウェルの間で紳士的に進められ、双方が納得した「年俸の約6割の支払い(180万ドル)」で合意したという。
暗黒期のチームを象徴するかのようなGW騒動。97年のグリーンウェルが残した数字は7試合、1三塁打、1二塁打を含む6安打5打点、打率.231。「すぐ阪神を去っていき『竜巻のようでした』と
吉田義男監督もあきれる、観光ビザで来たような外国人選手でした」と綴られる、熱狂的阪神ファンのタレント・松村邦洋の週刊ベースボール連載『松村邦洋のタイガース図鑑』では、最後こんな魂の叫びで締められている。
「ワンモア・バース、ノーモア・グリーンウェル」と。
文=プロ野球死亡遊戯(中溝康隆) 写真=BBM