月刊誌『ベースボールマガジン』で連載している伊原春樹氏の球界回顧録。4月号では懐かしの助っ人に関してつづってもらった。 メジャーで本塁打王2回
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メジャーで通算382本塁打を放っていたハワード
私が初めて外国人選手とともにプレーしたのは西鉄の
アーロン・ポインターだった。1971年、ドラフト2位で私は西鉄に入団したのだが、その前年にポインターは来日。1年目は126試合に出場して打率.260、22本塁打、16盗塁とそこそこの成績を挙げていたが、2年目は.186、3年目は.208と打率も下降した。長打力はあったが確実性がなく、守備や足も特筆すべきものがなかったので、あまりプレーで印象は残っていない。
それよりも脳裏に焼き付いているのは、その容姿。黒人だったのだが、俳優のデンゼル・ワシントンをさらにいい男にしたような感じ。聞くと、4人の妹はアメリカで有名なポインター・シスターズというコーラス・グループを組んでいたという。とにかく、性格もマジメ。黒人特有の陽気な面はなく、物静かな紳士だった記憶がある。
太平洋となった73年、来日したのが
ドン・ビュフォードだ。メジャー通算10年で1203安打を放ち、36歳で日本へ。1年目は打率.242に終わったが、翌年はリーグ2位の.303をマークした。思い切りのいいバッティングに全力プレーが売り。助っ人にしては珍しく内外野を守ることができ、打順も一番から四番までこなした。
ビュ
フォードとは逆に“お騒がせ”外国人だったのが74年に太平洋の一員となった
フランク・ハワードだ。身長200センチ、体重130キロの超巨漢。ドジャース時代に新人王に輝き、ワシントン・セネタース時代には本塁打王2回、打点王1回に輝くなど、メジャー・リーグ通算16年で382本塁打をたたき出した大砲だ。
抜群のメジャー実績を誇るだけに打撃を見るのが楽しみだったが、確かにすごかった。37インチの“物干し竿バット”を手にしたフリー打撃ではポンポン場外へ打球を飛ばす。詰まった当たりでもスタンドインさせるパワーがあり、柔らかさも兼ね備えていた。佐世保かどこかで行われたオープン戦でいきなり場外弾もぶち込んだ。本当にどんなにすごい結果を残すか楽しみだった。
しかし、
日本ハムとの開幕戦で右飛、三ゴロ失、四球に終わると右ヒザの痛みを訴えて交代。その後、当分の休養と発表されたが、結局戦列に復帰することなく、そのままフェードアウトしてしまった。
野球一家のアルー
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75年の32二塁打はパ・リーグトップだったアルー
ハワードが帰国してから、後期に向けて球団が獲得したのが
マティ・アルーだった。メジャー通算1777安打をマークした安打製造機。パイレーツ時代の66年には打率.342で首位打者も獲得していた。
兄の
フェリペ・アルーと弟のヘスス・アルーもメジャー・リーガー。フェリペはジャイアンツなどでプレーし、通算2101安打をマーク。引退後は指導者の道を歩み、エクスポズなどで監督も務めた。フェリペの息子、マティ・アルーから見て甥にあたるのがアストロズなどに在籍し、通算2134安打、332本塁打を放ったモイゼス・アルー。と、このようにアルー家は野球一家だった。
マティ・アルーのプレーでよく覚えているのが絶妙なセーフティーバント。左打席からショート前に的確にドラッグバントを決める。そんな打者はいなかったから非常に驚いた。
写真=BBM