昨年、創刊60周年を迎えた『週刊ベースボール』。現在、(平日だけ)1日に1冊ずつバックナンバーを紹介する連載を進行中。いつまで続くかは担当者の健康と気力、さらには読者の皆さんの反応次第。できれば末永くお付き合いいただきたい。 運命は交錯する
今回は『1967年4月24日号』。定価は60円。
開幕を前に近鉄のクレスの退団が決まった。
大洋時代の64年には36本塁打を放った大砲だが、成績不振で65年限りで退団。66年は近鉄で打率.277、17本塁打をマークしていた。
しかし67年3月8日、オープン戦の地・熊本から
小玉明利監督は「怠慢プレーでチームの和を乱した」とクレスを大阪に帰した。
練習への取り組み方や打席で鼻歌をうたうなどが、批判されていたらしい。
その後、藤井寺の残留組に交じって20日くらいまではマジメに練習していたクレスだが、やはりさぼり始めたので、小玉監督は3月末に話し合いをもち、そのときは「これから一生懸命プレーする」と言質を取り、再びオープン戦に帯同させた。
しかし30日、津市営球場での
中日とのオープン戦に姿を見せず。本人に聞くと、「(大阪からの汽車で)津を乗り越して名古屋まで行ってしまった。名古屋に着いたら雨だったので、中止と思って、宿舎に向かった」という。
その夜、小玉監督は「クレスはいらない」と決め、球団に伝えた。
4月4日、クレスは球団から「代打要員か退団か」と二者択一を迫られ、退団を選んだという。
当時36歳、バット一本で複数チームを渡り歩いていたクレス。今後は中南米でプレーする可能性が高いのでは、と言われていた。
こんな記事を書いていたら、小玉氏死去のニュースが届いた。
近鉄ミサイル打線の中核として活躍したヒットメーカー。チーム不動のサードだったが、実はクレスの加入でセカンドに回り、そのためではなかろうが、66年で4年連続3割が途切れた。
オフに兼任監督の声がかかり一度は断ったが、「近鉄を立て直せるのはお前だけ」と芥田武夫社長に言われ、就任。31歳だった。ただ、
三原修監督招聘で追い出されるように68年
阪神へ。
しかし、鳴かず飛ばずで2000本安打目前、1963安打での引退となった。
面白いというと、語弊があるが、クレスを大洋から出したのが、三原監督。近鉄を首になったクレスが67年にプレーしたのが、阪神。その翌年に、小玉が阪神だ。
不思議な運命である。
小玉氏のご冥福をお祈りいたします。
プロ野球はセ、パともに開幕。ベロビーチ帰りで注目の巨人は後楽園で
広島と対戦したが、広島先発・
安仁屋宗八の好投もあって1対8で敗れた。
王貞治は4打数2安打。
「安仁屋はよかったね。ボールが低めに来て、少し変化していた。あんなシフト(野手が右に寄る王シフト)をしていたからインコースばかりかと思ったが、外ばかりだった。風を計算したのかな」
また、3年目を迎えた東京・
山崎裕之がスイッチヒッターに転向の記事もあった。
では、またあした。
<次回に続く>
写真=BBM