1980年代。巨人戦テレビ中継が歴代最高を叩き出し、ライバルの阪神はフィーバーに沸き、一方のパ・リーグも西武を中心に新たな時代へと突入しつつあった。時代も昭和から平成へ。激動の時代でもあったが、底抜けに明るい時代でもあった。そんな華やかな10年間に活躍した名選手たちを振り返っていく。 強心臓も武器
1988年にリーグ4連覇、3年連続の日本一を飾った西武。黄金時代であることは間違いなかったが、西武となって10年目となる記念すべきシーズンでもあった88年は薄氷のリーグ優勝だった。前半戦こそ破竹の勢いで勝ち進んだものの、後半戦に入ると近鉄が猛追。西武が全日程を終了した時点でも優勝を決めることができず、その行方は近鉄の
ロッテとの最終戦ダブルヘッダー(川崎)、いわゆる“10.19”を待たなければならなかった。
打線はチームリーダーでもある
石毛宏典がリードオフマンとしても牽引、
秋山幸二と
清原和博の“AK砲”に続く五番打者として“第3の外国人”
バークレオが“AKB砲”を形成して、チーム最多に並ぶ38本塁打で大ブレーク。
安部理、
田辺徳雄らの仕事人も頭角を現すなど、攻撃力は圧倒的だった。一方の投手陣は、
渡辺久信がチーム最多の15勝を挙げて自身2度目の最多勝に輝き、
郭泰源が13勝、
工藤公康が10勝で続くも、長くエースの座に君臨してきた
東尾修は不祥事で序盤戦を棒に振り、復帰後も本調子に戻らず、ついにラストイヤーを迎えることになる。
そんな東尾に代わって先発ローテーションの一角を確保し、新人王に選ばれたのがプロ2年目の森山良二だ。かつて西鉄が黄金時代を築いた福岡県の出身。生まれたのは九州ライオンズ最後のVイヤーとなった63年だ。低迷するライオンズを東尾が支えていたとき、そう遠くない場所で少年時代を過ごす。直球と変化球のバランスが良く、卓越した制球力で低めに集めていく本格派の右腕。東尾と同様に、強心臓も武器だった。
さらには、88年の投球は東尾の直伝。それまでは投球の歩幅など気にしたこともなかったのだが、東尾に言われて意識してみると、自分に合った歩幅が分かってきた。投げるときのステップは6足半。歩幅を一定に保つことで、安定したフォームを手に入れた。プレートをフルに活用して投げ分けるのも東尾の直伝だ。狙うコースを結ぶ1本の直線をイメージしてプレートに立ち、その直線上に左足を踏み出すことで制球力がアップ。四球で自滅することがなくなった。なお、1本1000円くらいの栄養ドリンクを試合前に飲むのも直伝だという。
“シンデレラ・ボーイ”の88年
福岡大大濠高3年の夏にエースとして甲子園に出場し、3回戦で敗退。ここまでは、ほとんどのプロ球団はノーマークだった。その後は早大を目指すも2浪して北九州大に。だが、味方打線の援護がなく勝てないことが続き、2年で中退した。就職したのはONOフーズという食品会社。野球チームもなく、練習からは遠ざかり、スーパーで品出しなどをしながら休日にリトルリーグを指導する日々だった。
そこへ、86年秋のドラフトを前に、高校時代から目をつけていた西武のスカウトが訪ねてきて指名を伝える。そして当日、まさかの1位。本人も驚いたことだろうが、それ以上に関係者は驚いた。その疑問は「ONOフーズって?」。野球部もない食品会社なのだから無理もない。入団1年目は肩痛で4試合の登板に終わる。しばらく野球から遠ざかっていたのだから、これも無理はなかった。だが、巨人との日本シリーズ第1戦(西武)で大舞台を経験。敗戦処理だったが、この経験が2年目の大ブレークにつながる。
迎えた88年。東尾が不在の中、“凱旋登板”でもあった4月19日のロッテ戦(平和台)でシーズン初勝利、その勢いのまま前半戦だけで8勝を挙げる。後半戦は失速したが、2ケタ10勝を挙げて新人王に。
中日との日本シリーズでは、オープン戦での好投を「マグレ」と吐き捨てた中日の
星野仙一監督に、
「今に見ておれ、と気合を入れて投げた」
とリベンジ。第4戦(西武)でシリーズ最少タイ記録となる2安打完封勝利で、
「今日はなんて言ってくるでしょうね」
だが、翌89年からは肩やヒジの故障が相次ぎ、西武での勝ち星はゼロ。93年の開幕直前に横浜へ移籍して、3年間で3勝を挙げたが、95年に現役を引退した。
写真=BBM