日本のプロ野球に外国人登録枠が採用されたのは1952年から。だが、それ以前の黎明期から日系二世などの外国人はプレーしていた。時代とともに外国人枠、外国人選手の出身国、日本球界を取り巻く環境も変わってきた。それぞれの時代の中で外国人選手はどのような役割を果たしてきたのか。助っ人のトレンドを年代別に考察してみよう。 立ちはだかる「55本」の壁も
日本プロ野球は長らく、1964年の
王貞治(当時巨人)の55本がシーズン本塁打の最多記録だった。85年にバース(
阪神)が54本にまで迫ったが、王監督率いる巨人との対戦で勝負を避けられて歩かされるなど、追いつくこともならなかった。
2001年、近鉄のローズは55号を打って、「禁断の記録」に追いついた。その時点で、残り4試合。そこで1本でもアーチを架ければNPB新記録だったが、1試合あった王監督率いるダイエー戦で勝負を避けられるなど、結局のところ記録更新はならなかった。勝負を避けたのは王監督に気を使った周囲の意向とされているが、日本球界は「聖域」を外国人選手から守ったのである。
翌02年、今度は来日2年目の
カブレラ(
西武)がシーズン55号に並んだが、やはり追い越すことはできなかった。しかし01年のローズ、02年のカブレラともにその猛打がチームを勝利に導き、それぞれリーグ優勝の原動力となった。カブレラは本拠地・西武ドームに「カブレラ地蔵」なるものまで設置され、必勝を祈願して手を合わせる西武ファンの姿も数多く見られた。カブレラは「神様、仏様」の域にまで達したのだった。
巨人は00年代中盤、他球団で実績のあった外国人選手と数多く獲得した。ペタジーニ(ヤクルト)、ローズ(近鉄)、
シコースキー(
ロッテ)、
クルーン(横浜)、
イ・スンヨプ(ロッテ)、
ラミレス(ヤクルト)、
グライシンガー(ヤクルト)、
ゴンザレス(ヤクルト)などだ。日本で最初に入った球団との契約が満了したところで交渉し、合意したから入団しただけなのに、批判されることが多かった。
自前で「大当たり」外国人を最初から見つけるのがいかに難しいかの裏返しでもある。90年代を振り返っても、ハウエル(ヤクルト)、ヒルマン(ロッテ)、マルティネス(西武)と巨人入りしているから、言うならば伝統芸のようなものだった。
外国人監督ブーム

「ボビーマジック」と称された采配を駆使して05年、ロッテを31年ぶりのリーグ優勝、日本一に導いたバレンタイン監督
90年代に横浜で大活躍し、00年限りで帰国していた
ロバート・ローズが、ロッテに入団したのは03年のこと。2年間のブランクは気になったものの「史上最強の外国人打者」の呼び声高いローズの加入は大いに話題になったが、春季キャンプ途中の2月19日に「情熱がなくなった」と言い残して退団した。不誠実な印象は与えなかったのでマスコミに叩かれることはなかったが、公式戦でプレーすればどれほどの成績を残したのだろうか。
そのロッテは同年秋(シーズンでいうと04年から)、バレンタイン監督が9年ぶりに復帰。05年にはチームを31年ぶりの日本一に導き、「ボビー・マジック」と称えられた。2リーグ制以降、外国人として史上初めての日本一監督になった。
その翌年は
日本ハムのヒルマン監督も続いたことで「外国人監督」が少しブームとなり、その後もブラウン監督(
広島、
楽天)、コリンズ監督(
オリックス)と誕生したが、優勝までには至っていない。
五輪にプロの出場が「解禁」となったのは00年のシドニー五輪から。06年にはワールド・ベースボール・クラシックも始まった。日本人選手にとって、普段はNPBの同じチームでプレーしている外国人選手が国際大会の相手国の一員として対戦するようになったのも、この年代からだった。
写真=BBM