台湾の安打製造機

クロマティが着けていた背番号49を背負うなど、期待を受けていたルイス
90年代中盤、世の中ではプロ野球界の枠を超えた“
イチロー旋風”が巻き起こっていた。
例えば、背番号51が年間210安打を放った翌年、95年(平成7年)7月公開の映画版『スラムダンク 花道と流川の熱き夏』では流川楓の出身中学校のバスケ部主将として“水沢イチロー”が登場。日産自動車のCMでは、“イチロ・ニッサン”のキャッチコピーとともに本人がイメージキャラクターに起用され、ハウス食品のス
ナック菓子『とんがりコーン』ではCM出演だけでなく、なんと3種のイチローパッケージも登場した。
「俺ら2人、足してもイチロー人気には追いつかれん(笑)」
「そう、時代はイチロー・松井(秀喜)なんですよ。立浪・片岡じゃない(笑)」
『週刊ベースボール』1996年11月25日号掲載、この年ともにベストナインに輝いた
立浪和義(
中日)と
片岡篤史(
日本ハム)のPL学園同級生対談の中でふたりはそう笑い合う。「昔の長嶋さんと、今のイチローとどっちがすごいんやろ?」と立浪が言えば、片岡は「観客動員で比べたら、ジャイアンツの選手だった長嶋さんより、
オリックスを満員にするまでにしたイチローがすごいよ」と返す。この年の日本シリーズで激突したのは
巨人とオリックスだが、主役は
長嶋茂雄でも
仰木彬でもなく、両リーグのMVPに輝いた当時23歳のイチローと22歳のゴジラ松井である。時代は昭和末期の
清原和博と
桑田真澄の“KKコンビ”から、平成のイチロー・松井時代へと突入していた。
さて、週べ同号の96年秋季キャンプリポートでは、「“路易士”から“ルイス”へ!?」という記事も確認できる。巨人が宮崎でテストを行ったのが、台湾球界の兄弟エレファンツで活躍したドミニカ人プレーヤー、ルイス・デ・ロス・
サントスである。つまり、メークドラマ逆転Vの立役者となった巨漢右腕
バルビーノ・ガルベスや一時抑えを務めた
マリオ・ブリトーと同じく、ドミニカ共和国出身で台湾球界を経ての巨人入りルートだ。右投げ右打ちの30歳、身長196センチの大型三塁手。96年には打率.375のハイアベレージで首位打者に輝いている。まさに安打製造機。日本のマスコミはこの助っ人をこう呼んだ。“台湾のイチロー”と。
いや冷静に見ればタイプ全然違うんじゃ……普通に腹も出てるし……なんて突っ込みは野暮だろう。それだけ3年連続リーグMVPに輝いた96年のイチロー人気はすさまじかった。さて、ルイスはテスト初日のフリー打撃で55本中16本のサク越えを放ち、ケージ裏で見守る長嶋茂雄監督も思わずニンマリ。ネット裏からは「まあマント(96年に打率.111で4月中に解雇)よりは打つだろう」と控え目の太鼓判。記事内では「クラウチングスタイルの打撃フォームは懐の深さを感じさせる」と絶賛されている。
同僚外国人と言い争い

「守備には自信がある」と口にしていたが三塁守備は不安定だった
ドミニカ国籍のルイスは幼少時に両親が米国に一時移住していて、野球を始めたのはアメリカのリトルリーグ。やがて中南米地区担当スカウトの目に留まって、プロのキャリアをスタートさせる。メジャーでは満足な結果が残せず、マイナー・リーグのチームを転々とし、94年には27歳で台湾球界の兄弟エレファンツへ移籍。すると1年目から最多安打のタイトルに打率.358をマーク。2年目も連続最多安打に打率.352。3年目の96年には打率.375で首位打者に輝く。同年オフ、巨人はFAで
西武から清原和博を獲得。大ベテラン
落合博満と年俸4億円助っ人
シェーン・マックがチームを去り、新たなサイクルへと突入していた。そのリニューアルされた97年版の柱が「三番中堅・松井、四番一塁・清原、五番三塁・ルイス」だったわけだ。
しかし、だ。“台湾のイチロー”はオープン戦から攻守に精彩を欠く。九州でのダイエー戦では、初回から
浜名千広にあっさり三塁前にセーフティーバントを決められ、2回には二死満塁で
小久保裕紀の放った正面のゴロを見事にトンネル。ルイス本人は「まだ体が硬いといえば、そんな気もする。でも、オレは守備には自信がある」なんて強気のコメントを残すも、週べ記事内では「怒る前に哀れを誘われてしまうような下手っぷり」と酷評される始末。打撃に関してもさっぱりで、「守れない打てない助っ人を巨人はどうするのか、ミスターはとんでもない難問を抱え込んでしまった」とバッサリ。台湾時代には使用していなかったメガネをかけて打席に入るなど、次第に背番号49にも焦りが見え始める。
3月16日の東京ドームでの試合後には、ベンチ裏で同僚外国人投手の
エリック・ヒルマンから不安定な三塁守備を指摘され言い争いになり、そこに通りがかったバルビーノ・ガルベスも乱入し三つ巴のつかみ合いのケンカにまで発展。当時の『週刊宝石』では、「ザル守備への罵倒が発火点」の見出しが確認できる。
長嶋監督は復活を信じたが……

清原(右)の後の五番を任されたが打撃はさっぱりだった
この騒動も起爆剤とはならず、開幕後もルイスの状態は変わらなかった。しばらくは三番松井、四番清原のあとの五番を託されるが、まったく打球が上がらず、恐ろしく不安定な三塁守備は相変わらずで、一塁走者時にライト前の当たりでも二塁フォースアウト、さらにホームクロスプレーでも滑り込みすらしない走塁は、週ベ解説員の水野雄二が「怠慢プレー、もっと闘争心を見せてほしい」なんて喝を入れ、
中畑清もスポーツニュースでたびたび「サードは(元木)大介がいいと思う」と提言。それでも、長嶋監督は台湾のヒットメーカー復活を信じて1カ月間スタメン起用し続ける。
そんな最中に吉川ひなのが表紙を飾る『週刊ポスト』5月30日号では年齢詐称疑惑もスッパ抜かれ、直後に球団は新外国人選手の
ペドロ・カステヤーノ内野手を緊急獲得。次第にルイスは居場所をなくしていく。普段の性格は真面目でもの静か、自身の低評価を気にするナイーブな一面もあったという。
結局、97年の巨人はBクラスの4位に沈み、ルイスは39試合、打率.237、0本塁打、14打点、OPS.589の成績で終わり、もちろん1年限りで退団した。あのウォーレン・クロマティがつけた背番号49を任され、松井や清原とクリーンアップを組み、“台湾のイチロー”と呼ばれた男(ちなみにゴジラ松井は「ルイちゃん」と呼んだ)。残した成績は寂しかったが、その話題性では大いにマスコミやファンを賑わせた90年代の愛すべきズンドコ助っ人選手の存在。これもまた平成プロ野球史の一部である。
文=プロ野球死亡遊戯(中溝康隆) 写真=BBM