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平成助っ人賛歌

脅威の長距離砲ブライアントが打球を飛ばすために重要視していた部分とは?/平成助っ人賛歌【プロ野球死亡遊戯】

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シーズン途中に中日から近鉄へ


近鉄を優勝に導く4打数連続本塁打など、驚弾を数多く放ったブライアント


 CDデビュー前のSMAPが会いに行った、プロ野球の外国人選手がいる。

 1990年(平成2年)の雑誌『明星』12月号のアイドル野球上達企画で、当時18歳の中居正広と16歳の草彅剛が西武球場へ。そこで待っていたのは前年に平成最初のパ・リーグMVPに輝いたラルフ・ブライアント(近鉄)である。同席の村上隆行がまだ無名のSMAPに対して、「キミたち、どこかで見たような気がするんだよなァ。光GENJIのコンサート、出てなかった?」なんて突っ込む姿に時代を感じさせる。ブライアントに「すごい筋肉ですねー。やっぱりお尻が違いますねー。肉がキュッと上がってて……」とテンパって懸命に日本語で話しかける中居少年が、のちに野球日本代表の公認サポートキャプテンになるなんて誰も想像できなかった頃の話だ。

 ブライアントは平成初期最も有名なプロ野球選手のひとりであり、サッポロビールのCMにも出演するスタープレーヤーである。だが、日本でのキャリアの始まりは地味なものだった。メジャー時代は3シーズン計79試合で打率.253、8本塁打、24打点と平凡な成績。出場機会を求めた男は1988年(昭和63年)5月3日、26歳の若さで来日する。ドジャースのラソーダ監督と中日星野仙一監督が親しい間柄で、「1、2年じっくり育てられる若く打てる打者が欲しい」という闘将の要望に推薦されたのが荒削りな左の長距離砲ブライアントだった。

 推定年俸わずか750万円、しかも当時は助っ人の一軍登録は2人までという野球協約で、いわばゲーリーと郭源治に何かあったときの保険的な第3の外国人扱い。中日の若手に交じり合宿所暮らしをしながら、二軍戦で調整を続ける日々は、「ファームは朝が早いし、練習もハード。通訳もいない。軍隊にいるような感じだったよ」と本人も振り返るほど厳しい日々だった。

 だが、6月に事件が起きる。近鉄の四番打者リチャード・デービスが大麻所持で逮捕され、解雇処分。主力の離脱に揺れる近鉄で、中西太ヘッドコーチが密かに二軍戦視察をした際「この選手は打てる」と白羽の矢を立てたのが無名のブライアントだったというわけだ。さっそく金銭トレードを申し込み獲得。6月28日、来日してから2カ月経たない内での異例の国内移籍だったが、翌29日の日本ハム戦で早くも一軍登録されると、最初の5試合で4勝利打点の鮮烈デビュー。一時、打率2割3分台まで急降下するが、8月の月間MVPに輝くなど夏場に調子を上げ、8月21日の阪急戦から9月4日の阪急戦まで二度の1試合3ホーマーを含む12試合で10発の大暴れ。

 ハリウッド俳優エディ・マーフィ似の風貌に、”ミスター2ラン”と称される勝負強さ。加入1年目の74試合でなんと34本塁打(OPS.1.100)という驚異的な活躍で優勝争いのチームを牽引するも、伝説のダブルヘッダー“10.19”のシーズン最終戦にロッテと引き分け惜しくも優勝を逃す。

球史に残る数々の一発


東京ドームの天井スピーカーを直撃する推定170メートル弾も周囲の度肝を抜いた


 阪神から解雇されたランディ・バースが表紙の『週刊ベースボール』88年7月25日号掲載の独占インタビューで、ブライアントは日本の慣れない生活環境にも「ウインターリーグでドミニカやボリビアで生活したこともあるしね。料理も作れる」と力強く答え、夏に来日予定のフィアンセについても饒舌に語る。さらに他球団の助っ人選手のように高級マンションではなく、近鉄球団が購入した賃貸なら家賃12万円クラスの天王寺駅近くの普通のマンション住まい。翌年の春季キャンプも特別扱いを求めず初日からしっかり参加した。そんな飾らない姿がチームメートたちにも受け入れられ、平成が幕を開けた89年シーズン、いてまえスラッガーは爆発する。

 強力“ブルーサンダー打線”擁するオリックス、黄金時代を迎えようとしていた西武、そしてブライアントのいる近鉄の三つ巴の激しい優勝争い。勝負どころの夏場にB砲はギアを上げ、7月30日の日本ハム戦の1試合3発を含む月間13本塁打、8月1日のオリックス戦で両リーグ30号一番乗り。89年10月12日の西武とのダブルヘッダーでは自身6度目の1試合目3発(王貞治の5度を抜く日本新)、第2試合でも満塁弾と脅威の4打数連続アーチで、王者を粉砕し近鉄優勝を決定づけた。

 この年は打率.283、49本塁打、121打点でホームラン王に輝き、同僚の19勝を挙げた阿波野秀幸を抑え、セ・リーグのウォーレン・クロマティ巨人)とともに史上初めて両リーグ外国人選手MVPに選出された。さらに当時のプロ野球記録を更新する187個の三振数も話題に。「ホームランか、三振か」の豪快なバッティングスタイルは近鉄のチームカラーの象徴として人気を呼び、『週刊ポスト』ではクロマティの年俸1億8000万円とブライアントの3800万円を比較して、「同じ優勝の立役者なのにブライアントはあまりにも気の毒である」というかなりおせっかいな特集記事まで組まれている。

 ゴールデンルーキー野茂英雄がトルネード旋風を巻き起こした90年もその打棒は健在で、5月11日オリックス戦で通算7度目の1試合3本塁打の世界新、6月6日の日本ハム戦では「設計上ありえない」と驚愕された推定飛距離170メートルの天井スピーカー直撃“認定アーチ”、6月17日のオリックス戦ではソレイタ(元日本ハム)が持つ303試合目を大幅に更新する246試合目での史上最速100号アーチをかっ飛ばし、7月24日のオールスター第1戦も“平成の大エース”斎藤雅樹(巨人)から横浜スタジアムの左中間スタンド最上段の広告にぶち当てる特大弾でMVPに。まさにこの時期は球界最高の長距離砲と言っても過言ではないだろう。

 西武球場の右翼場外の森の中や川崎球場右翼場外の民家の上を越える特大アーチをかっ飛ばす一方で、23試合連続三振はパ・リーグ新。シーズン198三振の記録もしっかり更新。あまりにすさまじいフルスイングに腰を痛め一時帰国というオチもついた。

誰からも愛された背番号16


結果を残してもメジャーに帰ることなく日本でプレーを全うした(93年球宴に出場した外国人選手たち。左からハウエル(ヤクルト)、ウインタース(日本ハム)、パチョレックオマリー(ともに阪神)、ブライアント


 同じころ、阪神からメジャーに復帰したセシル・フィルダーが大活躍しており、当然若いブライアントの去就が注目されるも「オレはあくまで近鉄でプレーし続ける。とにかく今はチームの首位だけを考えるんだ」なんて泣けるセリフを残し、藤井寺球場でホームランを打ち続けた。同僚の野茂については「大リーグで絶対、通用すると思う」と週べインタビューで断言。自身のすさまじい長打力についてはこんな言葉を残している。

「日本では背筋力の強さが飛距離に関係すると言われるそうだが、オレの答えはノーだ。自分の場合、ホームランを打つのに背筋力とかは関係ない。腕力、特にリストのパワーだ」

 ブライアントとは小さいころから知り合いの元三冠王助っ人ブーマー・ウェルズ(オリックス)はこう笑う。

「子どものころからアイツの頭の中は場外にボールを飛ばすことだけ。大人になっても全然変わっていなかったよ(笑)」

 ……というか、この平成助っ人の連載も1年以上続いているが、ブライアントほど週ベのバックナンバーでロングインタビューが定期的に掲載された外国人選手はほかにいない。サービス精神旺盛でマスコミ受けも良く、チームメートだけでなく野球ファンからも贔屓チームの垣根を越えて愛された背番号16。91年6月にはスライディングの際に左ヒザ半月板損傷というアクシデントにも見舞われたが、93年には42本塁打、107打点で二冠獲得。いやもうひとつの勲章、年間204三振もNPB歴代最多記録だ。

 翌94年は開幕当初にジャネット夫人の急病により約1カ月帰国しながらも、35本塁打で自身3度目のキングに。しかし95年6月15日、右ヒジ関節にできた骨棘が炎症を引き起こし帰国して緊急手術へ。まだ34歳だったが、その年限りでチームを去った。8年間で通算259本塁打(史上最速の733試合目で250号到達)、1186三振。今では考えられないが、ペナント終了後も日本に残り、球団納会にも参加すると寒さに震えながらチームメートたちとゴルフを楽しんだという。

 プロ野球に近鉄バファローズがあった時代。あのころ、ブライアントの豪快なホームランと野茂英雄のトルネード投法で沸いた藤井寺球場はすでに解体され、今は跡地に小学校が建っている。

文=プロ野球死亡遊戯(中溝康隆) 写真=BBM

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