首脳陣を含めて91人――。ライオンズで支配下、育成選手72人より多いのがチームスタッフだ。グラウンドで躍動する選手たちだけではなく、陰で働く存在の力がなければペナントを勝ち抜くことはできない。プライドを持って職務を全うするチームスタッフ。獅子を支える各部門のプロフェッショナルを順次、紹介していこう。 台湾プロ野球チームでキャリアスタート

埼玉西武・袁嘉迪通訳
思いがけず、この道を歩むことになった。2015年、通訳として埼玉西武ライオンズの一員となった袁嘉迪がプロ野球界に携わったのは1999年からだ。当時、国立中央大1年だった袁は台湾プロ野球の興農ブルズでインターンとして働くことになった。本格的な野球経験はないが、野球好きだった袁は精力的に業務をこなした。大学2年までは広報、そして3、4年時は球拾いやグラウンド整備、打撃投手など“何でも屋”としてチームを側面から支えた。
大学卒業後、2年間の兵役を務め、その後、正式に興農ブルズへ広報として入団することに。ますます仕事にのめり込んだ袁だが、広報業が3年目に突入した2006年、シーズン途中、通訳が急にチームを去った。
「するとGMから“おまえ、英語を話せるでしょ”と。広報兼任で通訳をやることになったんですよ」
大学ではMIS(情報管理システム)を専攻し、英語を学んでいたわけではなかったが、興味はあった。高校時代から趣味で英語を勉強し、興農ブルズでは積極的に外国人選手と言葉を交わし、コミュニケーションを取っていた。
「当時は英語の深いところを理解していたわけではないですけど、野球に関しては何とかなりました。普段の生活をサポートするのは難しかったですけど」
同年7月にはかつて
ロッテでプレーしていた右腕・
竹清剛治がチームに加入したが、このときも通訳として袁に白羽の矢が立った。実は両親が日系企業に勤めていて、幼いころから家庭内に日本語が飛び交う環境に身を置いており、日本語も得意だったのだ。
「生活も日本式でした。例えば朝、ほかの家庭はサンドウィッチなどを食べているのに、ウチはご飯、味噌汁、目玉焼きに漬物(笑)。日本にはずっと縁がありました」
2007年にはマネジャー兼通訳に。竹清は去り、
日本ハムなどで通算46勝をマークした
芝草宇宙が新たに興農ブルズのユニフォームにソデを通した。チームは日本語の通訳を別に雇い、袁の負担も少しは減ったと思われたが……。
「その通訳がうまく仕事を果たせなくて。芝草さんも私が日本語を話せるのを知っているから、クレームが私のほうに来る。でも、台湾球界は未熟で、日本との違いを説明したいけど、私もうまく説明できませんでした。それが悔しくて」
郭俊麟とともに日本へ
ここで袁は思い切った行動に出る。シーズン途中に辞表を提出。自腹を切って、日本で日本語の勉強をすることにしたのだ。
「半年間、学校と家の往復。勉強以外はない生活でしたね」
2008年は台湾の別の球団へ入ったが翌年、再び興農ブルズへ。磨き上げた日本語でコーチの
寺岡孝(元
広島ほか)、
武藤潤一郎(元ロッテほか)、投手の
正田樹(元日本ハムほか)、そして
高津臣吾(元
ヤクルトほか)をサポートした。
しかし、2011年からチームは外国人選手を起用しない方針に。袁の肩書きも営業兼GM補佐となり、通訳業務から離れた。さらに、2012年終盤には親会社の経営不振からチームは身売り。「最後はGMと自分の手で興農ブルズをほかの会社に売りました」。2013年は統一ライオンズで通訳としてコーチの
紀藤真琴(元
中日ほか)、
中島輝士(元日本ハムほか)の担当となったが、2014年はフリーランスで活動。同年9月に韓国で行われたアジア大会にはマネジャーとして台湾代表に帯同した。
「その大会に備え、台北の球場で代表が練習をやっていたんですけど、捕手全員が道具を忘れてしまったんです。それでホテルに電話して、タクシーで運んでもらうようにお願いして。そろそろ到着するころだなと思って、球場の入り口で待っていたんです。タクシーが来たので、これかと思って近づいたら……」
車中から出てきたのは埼玉西武の
渡辺久信GM(当時SD)と編成部の宮田隆だった。宮田とは面識があり「何でここにいるの?」と驚かれたが、機転を利かせた袁は「渡辺さんが来るのを知っていたので、待っていたんですよ」と咄嗟に応え、球場内へ案内。これが縁となったのか分からないが、同年10月に台湾代表のエース・
郭俊麟の埼玉西武入団が決まった際、袁に通訳として声が掛かったのだ。
涙が出た昨年のソフトバンク戦

昨年9月15日のソフトバンク戦(メットライフ)、袁通訳(右)の力を借りずにアナウンサーとやり取りする郭
「ジュンリンには日本に行く前、ひらがなとカタカナを教えました。意味が分からなくてもいいから読めるようにしなさい、と。来日後はジュンリンが寮に住み、私は別のところに住みました。多少、距離を置いて、本当に困ったときに私が助ける。自分で勉強しないと、いろいろなことが上達しないと思いますから」
郭俊麟は1年目に3勝をマークも、2年目は未勝利に終わる。このままでは終われない。意気込んで迎えた2017年にアクシデントが襲う。春先、WBCに台湾代表として出場も打ち込まれ、結果を残せなかった。その後、右肩の状態が上がらずに、まったく投げられなくなってしまったのだ。
「あのときはジュンリンだけでなく、私も苦しくなりました。毎日、リハビリ、トレーニングを繰り返すだけ。ジュンリンも“いまやっていることに意味があるのかな”と自分で自分を疑うような状況でしたが、私も彼の前で落ち込んではいられない。『大丈夫、良くなっているよ』とひたすら励ますだけでした」
結局、2017年は公式戦で登板することはできなかった。転機は翌年、
許銘傑が二軍投手コーチになったことだという。
「ミンチェさんが来て助かりました。母国語で野球に関してやり取りできるようになり、ジュンリンにもだいぶプラスになったと思います」
10年ぶりの優勝を果たした2018シーズン、郭俊麟は大仕事をやってのけた。終盤、優勝争いを繰り広げていたソフトバンク戦の先発に抜擢。8月26日、ヤフオクドームでの一戦こそ6回5安打6失点だったが9月15日、3.5ゲーム差で迎えたメットライフドームでの直接対決では5回6安打3失点。2015年以来、3年ぶりの勝利を挙げたが、お立ち台にはアナウンサーと直接やり取りをする郭俊麟の姿があった。
「ホームで投げたときはジュンリンの名前が
コールされ、応援団が『頑張れ、頑張れ、郭俊麟!』って大声援を送ってくれたときに、まず泣きそうになりました。それで、一人でヒーローインタビューもこなして。本当にジュンリンは野球も、日本語の勉強も頑張ったと思います」
チームのために通訳以外も
袁が通訳として一番心掛けていることは「両者の気持ちを想像する」ことだ。
「最初、通訳をやることになったとき、先輩からそう教わりました。やはり、言われたことを100パーセント、そのまま訳して相手に伝えるわけにはいきません」
例えば投手は打たれたら、やはり落ち込む。そんなときに投手コーチから「制球力を直せ、クイックをしっかりやれ」など真正面から指摘された欠点をストレートに言葉にしたら、投手はどう思うか。そんなとき�
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ただ、中には英語を理解できる投手コーチもいる。ある試合で1点リードの9回、マウンドの外国人投手は一塁にランナーがいながら、ノーマークで二塁まで進塁させてしまった。結果的にゼロで終えたが、投手コーチは怒気を含んだ口調で「1点リードで簡単にランナーを二塁へ行かせてはダメだ!」と訴えた。投手コーチの気持ちも痛いほど分かるだけに、若干、強い言葉でその外国人投手に伝えた。
時間が経ち、投手コーチのいないところで外国人投手に「なんで通訳のおまえがそんなに怒るんだ」と責められたが、袁は丁寧に説明した。「さっきは申し訳なかった。でも、そう訳さないと投手コーチも納得しない。それに、あの場面で慎重にしないといけないのは自分でも分かるだろう」。人と人の間に立つ通訳という仕事ならではの難しさである。
それでも、袁は言う。
「トラブルが起こったら僕のせいです。場合によっては自分で判断して話の内容をうまく調整しないといけません」
強い責任感。それは好きな日本語を聞いても分かる。
「一生懸命って言葉が好きなんです。ただ、頑張るじゃない。この言葉には“命”が入っているじゃないですか。何事も命を懸けて頑張ってやらないと。私は毎年1月5日に来日して、12月の途中まで台湾には帰りません。家族、友達をはじめ、今までの自分のすべては台湾に置いてきています。日本では西武ライオンズの仕事を一生懸命にやるしかありません」
一生懸命は一所懸命ともいう。一つのところで、最大限の努力を払っていく。
「これからは、通訳はもちろん、それ以外でチームのために自分ができることを見つけていきたいです」
今年で40歳になる袁は、これからも命を懸ける思いで埼玉西武ライオンズのために尽くしていく。
(文中敬称略)
文=小林光男 写真=BBM