週刊ベースボールONLINE

プロ野球20世紀の男たち

イチロー「ニッポンが世界に誇る安打製造機の20世紀」/プロ野球20世紀の男たち

 

プロ野球が産声を上げ、当初は“職業野球”と蔑まれながらも、やがて人気スポーツとして不動の地位を獲得した20世紀。躍動した男たちの姿を通して、その軌跡を振り返る。

「まいったな、と思いましたね(笑)」



 この2019年の春、現役を引退したマリナーズのイチロー。手元に残った花火を一気に打ち上げるような演出が施された引退試合があるわけでもなく、静かに名選手がグラウンドを去り、その後ろ姿に注目が集まることは20世紀には多かった、いや、ほとんどだった気がするが、そんなラストシーンを、しばらくぶりに見た気がした。16年には日米通算4257安打を放って世界記録を更新し、メジャー通算3000安打にも到達。そんなメジャーでの雄姿を振り返るのは別の機会に譲って、今回はオリックスでブレークし、メジャーへ羽ばたいていくまでを振り返ってみたい。

 愛知県の出身。少年時代から目標をプロに据え、木製バットを使っていたという。もちろん中日ファンで、ポジションは投手。あこがれは中日の“スピードガンの申し子”小松辰雄で、投球フォームもマネた。愛工大名電高では2年の夏に外野手、3年の春は投手で甲子園に出場したが、最後の夏は県大会の決勝で敗退。ただ、このときの打率.750に注目したのが、オリックスの三輪田勝利スカウトだった。そして1992年にオリックスへ。ただ、ドラフトでの指名は4位と、期待を一身に背負ったスター候補だったとはいえない。

 1年目から一軍で40試合に出場、ウエスタンでは首位打者に輝くなど頭角を現す。ただ、オフの秋季キャンプで、インハイを攻略するためにバットの先を出すように指示され、左手でバットを押し出すように上からかぶせるクセがつきつつあった。そのとき、二軍の河村健一郎コーチが、右足を上げて、ゆっくり大きくタイミングを取るようにアドバイス。上体を残して下半身のキレで打つ持ち味を取り戻した。矯正のために取り組んだフォームが、いつしか“振り子打法”となっていく。

 2年目も二軍では打ちまくったが、一軍での数少ないチャンスを活かしきれずにいた。ただ、オフにはハワイのウインター・リーグに参加して打率.311。確実に地力はついてきていた。そして、新たに仰木彬監督が就任。現役時代は西鉄で“野武士軍団”を構成し、監督としては近鉄のヤンチャな選手たちを使いこなした指揮官は、この若き才能を見抜く。そして、新しいスタートして売り出そうと、登録名を「鈴木一朗」から「イチロー」に。

「最初は、まいったな、と思いましたね(笑)。いまはいいけど、30歳を過ぎてイチローというのも、ちょっと恥ずかしいかな、って」

頂点を極めたことで


 新たに「イチロー」として迎えた94年は開幕から安打の量産体制に入る。史上最速の60試合で100安打に到達すると、9月14日の日本ハム戦(東京ドーム)でプロ野球新記録の192安打、さらに20日のロッテ戦(GS神戸)では前人未到のシーズン200安打。最終的にはシーズン210安打で、パ・リーグ新記録となる打率.385で初の首位打者に輝いた。

 神戸を震災が襲い、「がんばろうKOBE」を合言葉にオリックス初優勝を果たした翌95年は首位打者に加え打点王、盗塁王も戴冠。ちなみに、NPB通算では199盗塁を決めているが、その通算盗塁成功率.858は企図数200以上の選手では日本ハムの西川遥輝が上回るまではトップだった。

 続く96年はリーグ連覇、日本一の立役者となり、3年連続で首位打者、MVP。ただ、個人としてもチームとしても、頂点を極めたことで、常に挑戦者でいたい、上を目指したい、といった自分を高める原動力を失ってしまったようにも見えた。険しい表情も増え、ますます打撃に対してストイックになっていった印象もある。

 一方で、96年オフの日米野球でメジャーのパワー、子どものように野球を楽しんでいる雰囲気を体感したことで、「あの中でやってみたい」と思い始めていたという。そんな中でも連続首位打者は継続。そして2000年オフ、ポスティングでマリナーズへ。20世紀の最後に海を渡ったヒットメーカーは、日本人の野手として初めて、21世紀にメジャーの打席に立つことになる。

写真=BBM
週刊ベースボール編集部

週刊ベースボール編集部

週刊ベースボール編集部が今注目の選手、出来事をお届け

関連情報

みんなのコメント

  • 新着順
  • いいね順

新着 野球コラム

アクセス数ランキング

注目数ランキング