昨年、創刊60周年を迎えた『週刊ベースボール』。現在、(平日だけ)1日に1冊ずつバックナンバーを紹介する連載を進行中。いつまで続くかは担当者の健康と気力、さらには読者の皆さんの反応次第。できれば末永くお付き合いいただきたい。 パは阪急、南海が大激戦
今回は『1968年10月21日号』。定価は60円。
セは巨人優勝が決定的で、あとは巨人の長嶋茂雄、
王貞治の首位打者争いなどが話題となっていたが(10月3日時点で王が.326、長嶋が.325)、パは阪急、南海の激闘となり、「同率で優勝決定試合になるかもしれない」とウワサされていた。
すでに日本シリーズ展望記事を掲載するタイミングなのだが、どちらにも絞れず、パは、すべて2球団の情報で記事にしていた。
ただ、南海は少々バタバタしていた。
3年契約が切れる
鶴岡一人監督の退任が濃厚と言われていたからだ。
中日、大洋が監督招へいに動いていたという。
鶴岡は当時、チーム内で求心力を失っていたらしい。
一度は球団を離れる決意をしたことが一つ、もう一つは監督に復帰する際、高額の契約金をもらっていたことが納税額の発表で発覚したこともある。
「給料ケチっとるクセに親分ばかりズルい」
ということだ。
特に
野村克也が不満を持っていたらしいが、この人の親分への思いは、ほかの選手より複雑だったのではないか。
記事では、鶴岡が
広瀬叔功ばかりちやほやするからと書かれていた。確かに、父親が早く亡くなったノムさんが、鶴岡に父親のような思いを抱きながら、それが報われぬゆえ……というのもあったのだろう(いつも冷たかったらしい)。
ノムさんは今でも「親分は杉浦(
杉浦忠)ばかりかわいがった。なんで俺のことが嫌いだったのだろう」と口癖のように言っている。
そして、もう一つ、監督就任直後に死去した
蔭山和夫への思いもあったはずだ。
鶴岡が父なら蔭山は兄だった。父親が兄を振り回し、結果的に死に追い詰めたとしたら……。
少し前の号になるが、ここで紹介しなかった話を抜粋しておく。8月5日号、野村が400号を放った際の手記である。
もちろん、普通に鶴岡にも感謝の言葉があったが、三冠王の65年を振り返って書いている箇所が興味深い。
本塁打王のライバル、阪急・
スペンサーが敬遠攻めにあったときだ(南海だけではなかったが)。当時、蔭山はコーチだった。
蔭山さんは僕の三冠王にどんなにアドバイスしてくれたことか。自分のことのように目の色を変えるほど頑張っていただいた。あの年、南海は優勝が後半絶望となったが、そうなった後、蔭山さんは、
「スペンサーは歩かせろ。世の中の人は卑怯というかもしれないが、そんなことは気にするな。記録として残ればそういうことは忘れられる。なんと言われようと歩かせてやれ」
と僕にハッパをかけられた。僕は捕手である。当面のライバルが打席に立って、僕が敬遠のサインを出して立ち上がるのはやはり抵抗を感じる。いささか困ったが、それほど蔭山さんは、僕の三冠王に力をつけてくれたのである。
いまでも蔭山さんから常にアドバイスを受けたことは忘れない。僕に野球理論があるとすれば、それは大きな比重で蔭山さんの理論が占めていることは断言できる。
そして一度は蔭山さんが監督として、思う存分野球をやられたらと残念な気持ちでいっぱいだ。勝負強さ、理論の鋭さ、おそらく名監督の一人に列せられるような野球をやられたに違いないのだ。
10月6日、南海の
皆川睦男が東映戦で30勝。通算200勝を達成した。
「シュートがよかった。ランナーを出してからが一層効果的だった。ノム(野村)をはじめ、みんなのバックアップのおかげ」
と笑顔で語った。
阪神・バッキーは阪神からの放出が濃厚。近鉄・ボレスとの移籍話が出ていた。
では、またあした。ではなく、月曜に。
<次回に続く>
写真=BBM