プロ野球が産声を上げ、当初は“職業野球”と蔑まれながらも、やがて人気スポーツとして不動の地位を獲得した20世紀。躍動した男たちの姿を通して、その軌跡を振り返る。 前にも後にも例がない大物の1対1トレード
1963年オフ。大阪は梅田にある阪神電鉄の本社、会議室に設けられた記者会見場には、阪神の野田誠三オーナー、大毎の永田雅一オーナーとともに、大毎“ミサイル打線”の中核を担う山内一弘、阪神で
村山実とエースの二枚看板を形成する小山正明の姿があった。
両リーグを代表する打者と投手。ともに覚悟を決め、時には笑顔も見せた“世紀の大トレード”の発表だった。
それまで、いや、その後も、トレードには非情さがつきまとう。80年代、
ロッテの
落合博満が
中日へ移籍したときは、交換相手の1人だった
上川誠二は覚悟を決めるのが早かった一方、同じく
牛島和彦の頭をよぎったのは引退だった。それ以前は、トレードで出されることは戦力外になったのと同じようなイメージがあったから、なおさらだ。だが、このときは、
「小山君のような投手の代わりに指名されたのは光栄。
巨人を叩くために頑張りたい」(山内)
「長年いたチームやし、寂しさはあるが、どうしてもということで、意気に感じている」(小山)
山内は52年に毎日へ入団。3年目の54年に外野の一角を確保すると、以降2年連続で打点王となり、毎日ラストイヤーの57年には首位打者。チームは大毎となり、Vイヤーの60年には2年連続で本塁打王、3度目の打点王で打撃2冠、MVPに輝いた。
球宴の大舞台に強く、巧みな
シュート打ちでも知られ、のちに南海の
野村克也、巨人の
王貞治が次々に追い越していったが、阪神1年目には通算本塁打のプロ野球新記録を打ち立てると、その後も歴代2人目の通算2000安打、初の通算300本塁打など、記録の歴史には欠かせない大打者。二塁打も多く、通算448本、56年のシーズン47本は、ともに長くプロ野球記録だった。
一方の小山は、テスト生として53年に阪神へ入団。4年目の56年に初めて規定投球回に到達すると、62年にはチーム最多の27勝、リーグ2位の防御率1.66、リーグ最多の270奪三振で阪神を2リーグ制で初の優勝に導き、沢村賞に選ばれる。「針の穴を通す」卓越した制球力で“精密機械”と言われ、通算320勝は歴代3位の記録として残る右腕だ。これほどの大物が1対1でトレードされるのは、その後も例がない。
ただ、ともにトレードの噂はあった。覚悟が早かったのは小山だ。27勝を挙げたVイヤーの62年、MVPに選ばれたのは25勝の村山。これで小山が不満を抱えていると言われるようになり、それこそが本人には不満だった。
そんな小山を欲しがったのが、“ミサイル打線”のチームから、投手を中心とした守りの野球へと転換を図っていた大毎の永田雅一オーナー。阪神の野田オーナーらに「小山をくれ」と申し出ると、その代わりに「欲しい選手がいたら誰でもやる」と付け加えた。
62年の阪神は、小山と村山の二枚看板でリーグ優勝したものの、打率はリーグ5位と貧打線に悩んでおり、「本当に山内をくれるなら」とトレードの動きが水面下で加速する。山内はトレードが内定した直後、永田オーナーに「後世に、いいトレードだったと言わせてやろうじゃないか」と言われ、覚悟を決めた。
ともに新天地を優勝に導いて
悲劇の印象が強いトレードだったが、記者会見で悲壮感がなかった理由は、ともにトレードを、良い転機として考えていたからでもあっただろう。小山は移籍1年目から自己最多の30勝を挙げて初の最多勝。山内は打率こそ下げたが、移籍1年目から四番打者として31本塁打、94打点を記録して王座奪還に導く。山内が
広島でラストイヤーを迎えた70年には、小山が16勝、リーグ3位の防御率2.30を記録して、ロッテとなって初のリーグ優勝に導いた。
小山は73年にコーチとして大洋へ移籍したが、投手の不足から現役に復帰して、オフに引退。その後は阪神、
西武、ダイエーでもコーチとして手腕を発揮した。山内も負けていない。教え始めたら「やめられない、止まらない」ことから“かっぱえびせん”と言われ、敵チームの選手にも熱心に指導することもあった。その後の2人が複数チームで多くの後進を指導したことを思うと、大物の1対1、という以上の“世紀の大トレード”だったのかもしれない。
写真=BBM