プロ野球が産声を上げ、当初は“職業野球”と蔑まれながらも、やがて人気スポーツとして不動の地位を獲得した20世紀。躍動した男たちの姿を通して、その軌跡を振り返る。 首位打者にもなった辻
2019年のパ・リーグで連覇を達成した西武。21世紀に入って初の連覇となるが、優勝どころか、連覇すら当たり前のようだった時代があった。それが1980年代から90年代にかけての黄金時代だ。80年代の前半、主砲としてチームを引っ張った
田淵幸一、90年代に入って強力クリーンアップを形成した
秋山幸二、
清原和博、
デストラーデの“AKD砲”は紹介した。
彼ら長距離砲が打線の主軸だったことは確かだろう。ただ、長距離砲をそろえることが常勝につながるとは限らないことも、歴史が証明している。なぜ、あの時代の西武が、あれほどまでに強かったのか。投手陣が充実していたこともあるだろう。もちろん、それだけではない。87年、“球界の盟主”を争ったとも言われる
巨人との日本シリーズでの一場面は、あまりにも象徴的だ。
3勝2敗で迎えた第6戦(西武)、1点リードの8回裏二死から、秋山の中前打で一塁走者が三塁を陥れただけでなく、そのまま一気に生還。
クロマティの緩慢な守備を読んでの好走塁は、森祗晶監督をして「5点にも匹敵する貴重な1点」と言わしめた、日本一を決定づけた追加点だった。その一塁走者こそ、現在の監督でもある辻発彦。このようなスキのない緻密なプレーこそ、西武黄金時代の底力だった。
辻は西武が初の連覇を果たした83年の秋、ドラフト2位で指名された。社会人では三塁手だったが、二塁手として台頭する。前任の二塁手は、その83年に通算2000安打に到達した
山崎裕之だった。
ロッテから西武元年の79年に移籍してきた名バイプレーヤーで、田淵やエースの
東尾修にも容赦なく批判を浴びせた
廣岡達朗監督がチームへの貢献を認めた稀有なベテラン選手でもあった。
大舞台での勝負強さで82年のプレーオフや83年の日本シリーズでMVPとなった“必殺仕事人”
大田卓司らとともに、いぶし銀のプレーで常勝へと突き進む西武を支えた山崎だったが、84年オフに現役引退。後釜に座った辻も名バイプレーヤーとして存在感を発揮して、92年の
ヤクルトとの日本シリーズでも、3勝3敗で迎えた第7戦(神宮)の7回裏一死満塁の場面で好送球を見せて同点を許さず、ヤクルトの
野村克也監督を「あのプレーで負けた。あれは気のプレーだ。誰にもマネできない」とうならせた。
退団したデストラーデの穴を埋めた93年にはリードオフマンとして打率.319、出塁率.395で首位打者、最高出塁率に輝き、打線では唯一のタイトルホルダーとして“主役”の座に躍り出ている。
劇的打での印象を残す司令塔の伊東
秋山が三塁から外野へ、チームリーダーの
石毛宏典が遊撃から三塁へコンバートされると、辻と二遊間を形成したのが
田辺徳雄だった。プロ野球5人目のランニング満塁本塁打もあった89年には不動の正遊撃手となり、首位打者も争う。翌90年からは“恐怖の九番打者”に。辻、田辺の二遊間は森監督ラストイヤーとなる94年まで続いた。
一方の外野には、80年代の前半は大田やガッツあふれる
金森栄治(永時)、満塁の場面で躍動した
立花義家など個性あふれる面々。中盤からは規定打席未満ながらゴールデン・グラブに選ばれた左キラーの
西岡良洋、鉄壁の左翼守備で貢献した
吉竹春樹らがチームに緻密さを加えていく。
90年代に入ると、
大塚光二が辻と同様、守備や走塁で台頭。92年の日本シリーズ第6戦(神宮)では、1点ビハインドの9回表二死から四球で出塁すると、やはり秋山の単打で本塁を陥れる好走塁を見せ、前回の連覇でもある98年、横浜との日本シリーズでは、最終戦となった第6戦(横浜)の9回表、“大魔神”
佐々木主浩に一矢報いる三塁打を放っている。
そして、不動の司令塔が伊東勤だ。14度の優勝を経験し、そのうち12度は正捕手として貢献。88年の
中日との日本シリーズでは日本一を決めるサヨナラ打、94年にはプロ野球で初の開幕戦逆転サヨナラ満塁弾を放つなど、劇的な一打でも印象に残る。
今後ふたたび、西武が黄金時代を築くかどうかは、まだ誰も知らない。ただ、それはバイプレーヤーたちがチームに積み上げる底力に懸かっていることだけは、間違いないだろう。
写真=BBM