
「故 竹中雅彦さんのお別れ会」が12月1日、大阪市内で行われ、故人を偲んだ
2017年、WBCで監督として侍ジャパンを率いた
小久保裕紀氏は、和歌山・星林高時代の記憶を、鮮明に覚えている。
「感謝の気持ちしかありません。竹中先生は、あの明るさ。日によって体調が優れないときや、機嫌の悪いときもあると思うんです。でも、いつも明るい姿勢。まったく変わらなかった」
10月16日に死去した日本高野連・竹中雅彦前事務局長(享年64)の「お別れ会」が12月1日、大阪市内で行われた。多くの球界関係者が、亡き故人に弔意を示した。
竹中氏は和歌山県立桐蔭高出身。軟式野球部に所属し、成城大では硬式野球部に在籍し、内野手として活躍した。大学卒業後は和歌山県の教員(地理)となり、1986年、初めて野球部長に就任したのが星林高だった。その後、県和歌山商高に赴任すると、和歌山県高野連の理事長を12年。2011年4月に日本高野連に参事として入局し、13年12月に事務局長に就任した。
在任中は元プロの学生野球資格回復制度のほか、大会運営ではタイブレーク、休養日、熱中症対策をはじめ、今年は球数制限を議論して導入が決まるなど、高校野球の発展に尽力した。12月20日、65歳の誕生日をもって事務局長を定年退職する予定だった。
竹中氏を一言で表現すれば、誠実。仕事に対しては献身的で、周囲への配慮を忘れない人だった。フランクなトークで周囲を和ませ、誰からも慕われ、プロ・アマ球界関係者は当然のこと、各メディアからの信頼も厚かった。小久保氏によれば、そんな温厚な人柄は、星林高時代から変わらなかったという。
「とにかく、授業が面白かったんですよ。私が日曜日の試合で本塁打を打つと、翌日『コイツ、ホームラン打ったんやで』と報告してくれ、誇らしかったのを覚えています」

竹中氏の教え子である小久保裕紀氏は、和歌山・星林高校時代の思い出を語った
谷口健次監督が所用で不在の際は、竹中氏がユニフォームを着て、グラウンドに立った。
「厳しかった監督と竹中先生とは、あまりにもギャップがあって……。オアシスだった。その日の練習はハッピーでした(笑)。ノック? 打たれました。あまり上手ではありませんでしたが(苦笑)、それも良き思い出です」
小久保氏は高校卒業後、青学大、ダイエー、
巨人、
ソフトバンクで活躍。現役引退後、竹中氏と接点を持つ場面が訪れた。
「侍ジャパンの監督に就任(13~17年)しまして、日本高野連の事務局長が竹中先生(U-18代表の運営を担当)。『全世代結束』として戦う姿勢を前面としていた中で、一緒に仕事をできたことはうれしかった」
報道陣から「心に残る言葉は?」という質問があった。
「言葉じゃない。あの人がいると皆、笑顔になるんです」
祭壇の遺影。竹中氏はいつもの満面の笑みを浮かべていた。「スマイル」は、人々を幸せにする――。大好きだったというハイボールをグラスで飲みながら、タバコをふかし、また、退職後に楽しみにしていたというゴルフを天国で満喫してほしい。
文=岡本朋祐 写真=BBM