プロ野球が産声を上げ、当初は“職業野球”と蔑まれながらも、やがて人気スポーツとして不動の地位を獲得した20世紀。躍動した男たちの姿を通して、その軌跡を振り返る。 横浜の街を包んだ独特な熱狂
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日本一に輝いた横浜ナイン
いきなり私事で恐縮だが、1998年10月8日の夜、たまたま筆者は横浜駅の近くにある居酒屋にいた。なにやら、その夜にも横浜ベイスターズが優勝しそうだという。大きな画面で観戦できる環境ではなく、気の利いた客が持ち込んだラジオが
阪神戦(甲子園)の戦況を伝えていた。誰もが盛り上がっていたが、その誰もが、口にこそしなかったものの、この日を境に急失速して前年と同じ2位で終わるのではないか、そんな思いを抱いているのも透けて見えた。
なにせ、前身の大洋が60年に川崎で初優勝、日本一を遂げて以来、78年に横浜へ移転してからも、とにかく優勝とは無縁だったチームなのだ。ただ、やはり快進撃だった前年とは違う雰囲気もあった。横浜が6月20日には首位に立つと、これまで
巨人ファンを公言してきた横浜出身の友人が「実は横浜ファンなんだ」と言い出すなど、この2019年はラグビーの“にわか”ファンが話題となったが、98年は“隠れ”ファンがゾロゾロと出てきた1年でもあった。
横浜駅の反対側、東口には“大魔神”
佐々木主浩の右手を“ご神体”とした“大魔神社”が“建立”されたことも知っていた。だが、クローザーの佐々木も最後の最後で力む印象があり、それもまた、この日を境に急失速して2位、という不安を呼んでいるようにも思われた。
一方で、独特の安心感をもたらしていたのが打線の存在だった。7月15日の巨人戦(横浜)で7点差をつけられながらも、13対12のサヨナラ勝ちをもたらすなど、打ちだしたら止まらない“マシンガン打線”。リードオフマンはリーグ6位の打率.314、39盗塁に輝いた
石井琢朗で、バントをしない“突貫小僧”
波留敏夫が二番で続く。
打率.337で2年連続の首位打者に輝く
鈴木尚典が三番。長打よりも安定感と勝負強さが持ち味で、この10月8日も1回表に先制の適時二塁打を放ったローズが四番を担った。五番は“満塁男”
駒田徳広で、横浜とは無縁だった優勝を巨人で何度も経験した貴重な存在。六番は左打者の
佐伯貴弘と、右打者で近鉄から移籍してきて1年目の
中根仁との併用だった。七番は
進藤達哉で、球界きっての守備職人ながら、この日も阪神の投手陣が乱れた8回表二死満塁から逆転の2点適時打を放って優勝を呼び込んだ。
打っては猛威、守っては鉄壁
八番は
谷繁元信。6年目の94年には司令塔の座に就いたものの、佐々木も登板の際にはベテランの
秋元宏作を指名するなど、「キャッチングとリードは今ひとつ」という評価もあった。これを覆し、司令塔にも返り咲いて3年目。この日も最後までマスクをかぶって、優勝の瞬間、1安打を浴びながらも9回裏を締めた佐々木とマウンドで抱き合った。
ちなみに、その瞬間、筆者がいた横浜の居酒屋ではビールかけを店員に制止された客たちが、85年の阪神ファンにならって近くに流れる汚い川に飛び込むべきか否かを相談していた。横浜の街を包んだ熱狂は、それを引っ張った熱心なファンもいた一方で、阪神の85年とは違った、なんとも不慣れで、戸惑いの末に歓喜をかみしめるような、独特なフィーバーだった印象もある。それもチームカラーであり、ファンの雰囲気でもあった。
打って打って打ちまくる勢いが魅力の“マシンガン打線”も、守っては堅実。捕手の谷繁、一塁の駒田、二塁のローズ、三塁の進藤、遊撃の石井と、内野のゴールデン・グラブは横浜の野手が独占している。
横浜スタジアムで初めて開催された
西武との日本シリーズでも勢いは衰えず。第5戦(西武ドーム)では20安打17得点で王手。迎えた第6戦(横浜)は西武も意地を見せ、エースの
西口文也に7回裏までは封じられたが、8回裏に駒田の2点二塁打で先制、続く9回表は佐々木が1点を失いながらも最後を締めて、地元で
権藤博監督は宙を舞った。
その権藤監督も20世紀とともに退任、ローズと駒田も去り、ほかの打線の“弾丸”たちも21世紀に入って次々と姿を消した。横浜ひと筋を貫いたのは鈴木のみ。そしてチームも、ふたたび優勝から遠ざかっていった。
写真=BBM