月刊誌『ベースボールマガジン』で連載している伊原春樹氏の球界回顧録。2020年1月号では巨人・阿部慎之助に関してつづってもらった。 日本シリーズでの好フィールディング
昨季の日本シリーズ終了後、巨人、ソフトバンクの選手の手によって胴上げされた阿部
阿部慎之助のプレーを初めて目にしたのはテレビ画面を通じてだ。それは中大時代のプレー。記憶に残っているのは捕手としてのプレーではなく、やはりバッティングだ。しなやかで力強いスイング。ボールを確実にとらえ、右へ左へと運んでいく。アマレベルでは抜きん出たバッティングをしていたことを覚えている。
実際、2001年に逆指名で巨人に入団すると、すぐに正捕手の座をつかみ、1年目こそは打率.225、13本塁打に終わったが、2年目には.298、18本塁打、3年目には早くも.303と打率3割を突破。捕手としては十二分過ぎるバッティングを誇るようになる。
私が初めてグラウンドで対したのは2002年の日本シリーズか。この年、
西武監督に就任した私は選手の力もあって新人監督記録の90勝をマークして4年ぶりのリーグ優勝を果たした。日本シリーズの相手は巨人で
原辰徳監督が同じく就任1年目で頂点へ導いて、2年ぶりに頂上決戦へコマを進めていた。阿部は2年目。スコアラーから守備に関して「肩は普通」という報告を私は受けていた。
それじゃあ、西武のお家芸である“足技”を存分に使えるなと思っていたが、試合前のシートノックを見ていると、阿部が二塁へきれいなボールを投げているのが目に入った。肩ヒジのしなやかさもあるのだろう。体全体を使ったバランスの取れたフォームから“上品”なボールがスーッと放たれる。例えば西武などに在籍した
中嶋聡(現
オリックス二軍監督)は強肩と言われていたが、力任せに投げる感じで送球自体のスピードはあるが、どこに行くか分からない“下品”なボール。阿部の送球はそれとはまったく真逆だった。
阿部にはいきなりやられた。日本シリーズ第1戦(東京ドーム)、初回に先頭の
松井稼頭央(現西武二軍監督)が
上原浩治の初球をいきなりとらえ中前打で出塁。ちなみに日本シリーズでのプレーボール安打は、1985年の
阪神・
真弓明信以来、史上2人目の快挙だったという。これが、日本シリーズの流れを引き寄せる安打になるはずだった。だが、この直後のワンプレーがシリーズの勝敗の行方を左右する運命の分かれ道の、いくつかあったうちの1つになる。
続く
小関竜也(現西武外野守備・走塁コーチ)は初球をバント。これが鈍く投手前に転がったが、阿部に素早く捕球されて二塁へと送球された。松井の足をもってしても、二塁アウト。確かに小関のバントは完ぺきではなかったかもしれないが、シーズン中ならばパ・リーグ球団は松井の足と野選を警戒し過ぎて二塁へ送球することはほとんどなかった。だが、阿部は敢然と二塁へ送球。先制機を作れずにこの回、得点を挙げられなかった西武は第1戦を落とし、そのまま波に乗れずに4連敗を喫してしまったのはいまだに忘れられない。
巨人ヘッド時代、1度だけ叱り飛ばしたことも
若いころからバッティング技術には優れていた(写真は新人時代)
2007年、私はヘッドコーチとして巨人のユニフォームを着たが当時、阿部は7年目。キャプテンにも任命され、選手として脂の乗り切った時期だった。同年は当初、四番に座っていた
イ・スンヨプが不振に陥り、阿部が代わって6月9日の
楽天戦で巨人軍第72代四番に抜擢。33本塁打、101打点で期待に応え、5年ぶりの優勝に大いに貢献してくれた。オフには北京五輪アジア予選でも奮闘。打率.767と打ちまくって、大会MVPにもなっている。
翌年、
ラミレス(現
DeNA監督)が
ヤクルトから加入して、2007年に巨人の一員となった
小笠原道大(現
日本ハム一軍ヘッド兼打撃コーチ)とともに強力打線となった巨人だが、その中でも阿部の勝負強さは群を抜いていたと思う。
私が巨人ヘッドコーチに就任したとき、原監督から「今の選手は弱い。伊原さん、強い選手を作ってください」と要望を受けたが、阿部はまさに強い選手だった。簡単に痛いのかゆいのは言わない。あまり大ケガもなかたように思うが、ただ、覚えているのは2008年のことだ。連覇を達成した10月10日のヤクルト戦(神宮)、牽制で二塁へ帰塁した際に右肩を負傷。クライマックスシリーズにも出場できず、日本シリーズでも代打、指名打者の出場のみだった。
西武の前に敗れ、日本一の夢は叶わず、不完全燃焼の思いを抱いていたのだろう。翌年、日本ハムとの日本シリーズでは打っては第5戦(東京ドーム)でサヨナラ本塁打を放つなど23打数7安打、2本塁打、5打点。守ってもリードが冴え、投手陣を率いて7年ぶりの日本一。文句なしのシリーズMVPに輝いたことはしっかりと覚えている。
巨人ヘッドコーチを務めた4年間で阿部を叱り飛ばしたことは1度だけあった。確かコーチ1年目の2007年だったはずだ。ヤフードームでのヤクルト戦(7月4日)、阿部が一塁にいて打席には
二岡智宏(現巨人三軍総合コーチ)。ここでヒットエンドランのサインが出た。二岡は外角に投じられたボールに対して必死にバットに当てて一、二塁間へボテボテのゴロとなった。相手二塁手は4、5歩一塁方向へ走って捕球したが、緩い当たりだっただけに二塁はセーフになるだろうと思っていた。しかし、ボールは二塁手から遊撃手へ転送され阿部はアウト。結局、併殺打となり、チャンス拡大とはならなかった。
試合後、私は阿部に向かって言った。「慎之助、ヒットエンドランのときのあの走塁は何だ。いつも言っているだろう。足が遅いのは仕方ないが、それだけ相手は無警戒になるのだから半歩でも大きくリードを取れ、と。あの打球で二塁アウトになるのはおかしいし、体を投げだしてまでバットに当てた二岡に失礼だぞ。もう少し走塁を積極的に意識しろ」。
直接ではないが苦言を呈したこともある。打撃練習中、阿部は時々、遊びの格好でちょこんとファウルを打つことがあった。誰が見ても真剣にバットを振っていない。当時の打撃コーチに「阿部はあれでいいのか。打撃投手に失礼じゃないか。ラミレスを見てみろ。50スイングしたとしたら、ワンスイングも気を抜くことはないぞ」と言った。それを阿部に伝えたのだろう、あとで阿部が「(指摘してくれて)ありがとうございます」と頭を下げてきたこともあった。
勝負どころの土壇場で初球の入り方が…
2009年の日本シリーズでは攻守に活躍してMVPに輝いた
阿部のリード面において、1つ気になるところがあった。土壇場の勝負どころで、初球の入り方が不用心なところがあったのだ。特に初球から振ってくる打者が重要な場面で打席に入ったとき、ベンチから私は「初球、初球!」と阿部に聞こえるように大声で声を張り上げていた。当然、打者の耳にも入っているが、そのように言われると初球からバットも出にくくなるだろうとも考えてのことだが、阿部は当時のバッテリーコーチに「ヘッドをどうにかしてください」と愚痴っていたらしい。
それを当時の清武英利球団代表が教えてくれたことがあった。当然、阿部も長年、巨人の扇の要を担ってきたプライドもあったのだろう。ちょうど30歳前後で確固たる自信も自分の中に宿しているころだ。ただ、信頼して何も言わないことも大事だが、時にはさらなる成長を促すために厳しい行動を起こすことも重要だと思う。
昨季限りで阿部もユニフォームを脱いで、秋季練習から二軍監督として新たな道を歩んでいるが、指導するには優しいだけでも、厳しいだけでもダメだということが分かってくるだろう。ただ、これまでも阿部は若手にアドバイスを送ってきた。捕手だから視野も広く、目配り、気配りもできるはずだ。将来の一軍監督就任もにらんでのことだろうが、指導者として二軍監督で経験を積むのは最適の選択だと思う。
指導者デビューした日にはフリー打撃で自ら打撃投手を務めたという記事も目にした。まだ40歳と若く当然、体も動くわけだから選手と一緒になって練習をするのはいいことだ。それに、阿部の“上品”なボールを打つことができる。巨人の若手にとって非常に幸せなことだろう。
写真=BBM