メジャーで3度の最多セーブ
一番プエルトリコの暴れ鷹、
トニー・バナザード、背番号9。四番ショーアップマン、ウィリー・
アップショー、背番号7。九番わが福岡のドリームボーイ、
山之内健一、背番号60……。
水島新司が描く漫画『あぶさん』の福岡ダイエー編で、福岡移転初年度の89年オープン戦試合前、スタジアムDJ風に場内アナウンスで選手紹介するシーンがある。「いつも驚かされてきたダイエーの新趣向ですが、その中でもこれはまさしく極めつき」という説明からも、当時の日本球界ではあくまで漫画の世界でのアイデアだった(この2年後に
オリックスがグリーンスタジアム神戸の移転で試みたスタジアムDJが日本球界初と言われている)。
新生ダイエーホークスは、平成が始まったばかりの89年1月19日に中内功オーナーを先頭に選手・スタッフ総勢150名がチャーター機で福岡入りし、ボブ・
ムーア氏による球団マスコットキャラクター「ホーマー・ホーク」(現ハリー・ホーク)のデザイン料は、なんと1億円と日本が未曾有の好景気に沸く時代に誕生した新球団でもあった。移転1年目は、首位近鉄と11ゲーム差のリーグ4位に終わるも、観客動員数125万1000人と南海時代最終年の91万8000人から大幅アップ。78年限りでライオンズが九州を去って以来、10年ぶりのプロ野球の帰還を福岡市民は平和台球場に駆けつけ歓迎した。
なお、三宅一生デザインの新ユニフォームお披露目モデルとなったのは、新たなチームの顔を期待された
佐々木誠と
加藤伸一。シーズンではガッチャマンヘルメットが似合う
岸川勝也がサヨナラ弾3発を含む26本塁打を放ち、地元・福岡出身の
山本和範がリーグ4位の打率.308をマークする。移転2年目から
杉浦忠に代わり、当時43歳の
田淵幸一が新監督に就任。89年秋のドラフト会議では
野茂英雄の抽選を外すと甲子園のアイドル
元木大介(上宮高)を果敢に1位指名。結果的に入団拒否されるも、新生田淵ダイエーは派手なスタートを切る。
90年春季キャンプ、そんなダイエーに入団テストを受けにきた超大物選手がいた。大リーグ史上2位(当時)の通算307セーブを挙げた伝説的な抑え投手、リッチ・ゴセージである。ヤンキースを解雇され未所属だったゴセージは2月16日にダイエーのキャンプ地に現れ、ほとんどキャッチボールもせずに141キロの直球を投げるも不合格。18日には近鉄のキャンプでも投球を披露するが、こちらも
仰木彬監督から「いらん」とつれない返事。全盛時には100マイル(約161キロ)の速球と85マイルのスラーブを武器に、ホワイトソックスやヤンキースで3度の最多セーブに輝いたクローザーも、すでに38歳となり新たにプレーできるチームを探していた。
成績低迷で夏前に緊急獲得

日本球界初登板で同点2ランを食らうなど、実力を発揮できなかった
しかし当時はジャパンマネーを狙った売り込みも多く、30代前半の現役バリバリのメジャー・リーガーを獲得するNPB球団が多かった。113勝98敗307セーブ、防御率2.92というすさまじい実績を持つゴセージも、すでに終わった投手と見られていたのである。だが、90年シーズンが開幕すると、ダイエーは年間100敗到達も囁かれるペースで黒星を重ね、勝率2割台の最下位独走で投手陣も崩壊。田淵監督はブルペンの救世主を探し、夏前にいまだ所属先の決まっていなかったゴセージの再テストを行い緊急獲得を決断する。
背番号54、入団契約金4000万円で1勝、1セーブごとに出来高ボーナス支給。身長192センチ、102キロの巨体に、ガーガー言ってかみつく気性の荒い性格で“グース”(がちょう)の愛称で知られる超大物大リーガーを少しでも早く使いたい球団側は、7月2日の夜9時に緊急入団発表を行う。39歳の誕生日を翌日に控えた4日の近鉄戦で初めてベンチ入りすると、5対3とダイエーが2点リードで迎えた8回裏二死一塁で来日初登板。『週刊ベースボール』90年7月23日号には「リッチ・ゴセージ その晴れやかな時代と不安な未来」という詳細な試合リポートが掲載されている。
当時のゴセージに対する注目度の大きさが分かる記事だが、“グース”はいきなり先頭の
ジム・トレーバーに2球目のストレートを完璧にとらえられ、右翼席へ同点2ランアーチを食らってしまう。「セットポジションからの調整がいまひとつだった。そのためにトレーバーへの直球が棒球になってしまった。今後はセットポジションでの投球をポイントに調整する」とゴセージは前を向いたが、往年の剛速球は鳴りを潜め、やたらと変化球が目立つ投球内容にネット裏の評論家たちは「年齢的な問題か、それとも実戦から離れているせいか、球に期待したほどの迫力はなかった」なんつってクビをひねった。
田淵監督は起用を続けたが……
それからも自らの希望で獲得を決めた田淵監督は大物助っ人を起用し続けるも、実戦を離れていたゴセージは30球を超えたあたりから球威が落ちるスタミナ面の不安が露呈し、投げた後に極端に一塁側へ流れる投球フォームからバントで揺さぶられ自滅するシーンも見られた。初セーブまでに7試合もかかり、6試合連続救援失敗で『週刊現代』に“無能・田淵監督とポンコツ・ゴセージの迷コンビ”、“一晩でビール30本の大酒豪、獲得は誤セージ”という見出しも踊った。
「開幕後も自主トレで調整を続けていた」はずが、『週刊文春』では「コロラド州の自宅の牧場で牛のフンでも投げていただけ」なんて牛のフントレーニング疑惑をかけられる元セーブ王。結局、この年のダイエーは借金44で勝率.325の球団ワースト記録を更新し、ゴセージは28試合2勝3敗8セーブ、防御率4.40でわずか3カ月ほどのプレーで日本を去る。
だが、“グース”はまだ死んじゃいなかった。91年にレンジャーズでメジャー復帰すると複数球団を渡り歩き、しぶとく43歳まで現役を続け、MLB通算1000登板を達成。ゴセージは2008年にアメリカの野球殿堂入りを果たし、田淵幸一も2020年に日本の野球殿堂入り。ダイエー初のドラフト1位指名野手、元木大介はハワイで浪人生活を送り翌90年ドラ1で
巨人入り。今季から巨人一軍ヘッドコーチを務めている。
あれから長い時間が経ったのだ。30年前は田淵采配とゴセージの救援失敗がマスコミの恰好のネタとなり、勝率3割台の弱小球団だったダイエーホークスは、いまや3年連続日本一の最強
ソフトバンクホークスへと変貌したのである。
文=プロ野球死亡遊戯(中溝康隆) 写真=BBM