高卒1年目で打率3割、30本塁打をマークした
清原和博(元
西武)、16勝で最多勝に輝いた
松坂大輔(西武)、大卒1年目で20勝を挙げた
上原浩治(元
巨人)など球史に名を刻んだ名選手は新人王を活躍したときの成績もスケールが違う。その一方、プロでの通算成績は目立った数字ではないが、新人の時は衝撃的な活躍で世間を驚かせた選手もいる。強烈な光を放った以下の投手たちの活躍を覚えている読者も多いだろう。
・木田勇(日本ハム、大洋、
中日)
※新人の年 40試合登板 22勝8敗4セーブ 防御率2.28
※通算成績 273試合登板 60勝71敗6セーブ 防御率4.23
日本鋼管で社会人No.1サウスポーとして名を馳せ、78年のドラフトで大洋、阪急、
広島の3球団が1位指名。広島が交渉権を獲得したが、入団拒否した。翌79年に巨人、日本ハム、大洋の3球団が1位指名で再び競合して、日本ハムに入団した。大小2種類のカーブ、パームと直球を織り交ぜる投球スタイルで新人王に加え、最多勝、最優秀防御率、最高勝率、最多奪三振と1年目にタイトルを総ナメ。新人で史上初のシーズンMVPも受賞した。しかし、2年目に10勝と白星を大幅に減らすと、3年目以降は2ケタ勝利がなし。1年目の輝きを取り戻せないまま、90年限りで引退した。
・近藤真一(中日) 本名は近藤真市
※新人の年 11試合登板 4勝5敗0セーブ 防御率4.45
※通算成績 52試合登板 12勝17敗0セーブ 防御率3.90
享栄高で1986年には春、夏連続で甲子園大会に出場。左腕から140キロ台後半の威力十分の直球と縦に割れるカーブを武器に「10年に1人の逸材」と注目を集めた。同年のドラフト会議で5球団が1位指名で競合し、地元の中日に入団した。一軍デビュー戦は衝撃だった。87年8月9日の巨人戦(ナゴヤ)でプロ野球史上初の快挙となる初登板ノーヒットノーランを達成。2年目も球宴前に7勝をマークして球界を代表する投手への期待がふくらんだが、その後は左肩痛に悩まされ、3年目以降未勝利。まばゆい才能を持つ左腕はプロ7年間という短い現役生活だった。
・与田剛(中日、
ロッテ、日本ハム、
阪神)
※新人の年 50試合登板 4勝5敗31セーブ 防御率3.26
※通算成績 148試合登板 8勝19敗59セーブ 防御率4.58
社会人・NTT東京で150キロを超える剛腕投手として注目され、90年にドラフト1位で中日に入団。8月15日の広島戦(広島市民)で当時日本人プロ最速の157キロを計測。新人で同期入団の近鉄・
野茂英雄とどちらの球が速いか、野球ファンの間で話題になった。守護神として新人で当時最多の31セーブを挙げ、新人王と最優秀救援投手のタイトルを獲得。3年目までに計120試合に登板して救援の屋台骨を支えたが、4年目以降は右ヒジ痛に苦しみ登板機会が激減。4球団を渡り歩いたが復活できず、00年限りで現役引退した。
・伊藤智仁(ヤクルト)
※新人の年 14試合登板 7勝2敗0セーブ 防御率0.91
※通算成績 127試合登板 37勝27敗25セーブ 防御率2.31
最速153キロの直球と真横に滑るような高速スライダーで「プロ野球史上最高の投手」の呼び声が高い右腕。92年のドラフトで広島、
オリックス、ヤクルトが1位指名で競合し、ヤクルトに入団した。
野村克也監督の下、6月9日の巨人戦(石川)ではリーグタイ記録の16奪三振をマーク。9回二死で
篠塚和典にサヨナラアーチを浴びて敗れたが、全国中継のテレビで見せた快投は大きな衝撃を与えた。新人王を受賞したが2年目以降はケガとの闘いが続いた。97年に7勝19セーブでカムバック賞を受賞したが、右肩痛、右ヒジ痛を何度も再発。03年10月の秋季コスモスリーグ・巨人戦が現役最後の登板となり、投じた球はすべて
ナックルだった。
・山内泰幸(広島)
※新人の年 34試合登板 14勝10敗0セーブ 防御率3.03
※通算成績 184試合登板 45勝44敗1セーブ 防御率4.40
日体大で通算31勝をマーク。他球団からも金銭面で好条件を提示されたが、95年ドラフトで広島に球団史上初の逆指名選手として入団した。新人で初登板初先発初勝利を挙げると、5月には4勝で月間MVPを獲得。シーズンを通じて先発ローテーションの軸として投げ続け、14勝で新人王を獲得した。右ヒジを高く上げる独特の投球フォームが、ピンク・レディーの楽曲『UFO』の振り付けに似ていたことから「UFO投法」と呼ばれて話題に。2年目も11勝を挙げて不動のエースとして期待が高まったが、3年目以降は右ヒジ痛などの影響で目立った活躍ができず、02年限りで現役引退。29歳の若さだった。
写真=BBM