歴史は勝者のものだという。それはプロ野球も同様かもしれない。ただ我々は、そこに敗者がいて、その敗者たちの姿もまた、雄々しかったことを知っている。 地元に愛されるチームに

1992年1月、千葉でファンに挨拶するロッテナイン
ロッテが本拠地を川崎球場から千葉マリンスタジアムへ移転して、オリオンズからマリーンズとしてスタートを切ったのは1992年のこと。プロ野球が始まって56年が経過、時代も昭和から平成となっていた。ロッテは「地元に愛されるチームに」とチーム名にも千葉を冠して、プロ野球の長い歴史にあっても異彩を放つピンクを基調としたユニフォームで再出発。すでに98年の18連敗、そして“七夕の悲劇”については紹介しているが、数多くの印象的なドラマを経て、「地元に愛されるチーム」に成長していった。
一方の千葉県はプロ野球の歴史において独特な存在感を放つ。隣接する首都の東京には古くから多くのチームが本拠地を置き、やはり東京と隣接する神奈川県にも早くから大洋が、同じく埼玉県には79年から
西武が本拠地を置いていて、この点では後塵を拝したが、高校野球では数多くの強豪校があり、それに比例するように無数の名選手がプロ野球で活躍してきた。筆頭は
巨人の
長嶋茂雄だろう。同じく三塁手で、同様に“ミスター”と言われたのが
阪神の
掛布雅之で、同じ左打者では同時代に
中日に
谷沢健一、中日にはロッテで現役を終える
宇野勝、投手で速球派の
鈴木孝政もいた。
ただ、そもそもチームが多いこともあるが、やはり東京に本拠地を置くチームの名選手が圧倒的に多い。巨人には
篠塚利夫(和典)や
高橋由伸、
阿部慎之助を輩出し、その巨人にFAで
日本ハムから移籍した
小笠原道大も千葉県の出身。投手にはV9時代に右腕の
城之内邦雄もいるが、左腕では90年代
ヤクルトの
石井一久も強烈な印象を残す。投手ではロッテに
木樽正明もいるが、ロッテはロッテでも、よりによって(?)神奈川県にいた時代のロッテ。あろうことか(?)埼玉県に本拠地を移して間もない西武へ入団して黄金時代の中心選手となった
石毛宏典も千葉県の出身だ。
絶大な人気を誇る巨大娯楽施設や世界への玄関口でもある国際空港も千葉県にありながらも東京を名乗るなど、プロ野球の世界ではなくても東京を影となって支えているような千葉県だが、プロ野球でも長く本拠地を置くチームがなかっただけで、多くの名選手を東京へと送り出してきた。その戦力たるや全国でも屈指で、“関東大会”で現在の監督でもある
井口資仁がいる東京都を撃破して、その座を奪うのも夢ではない“野球王国”なのだ。
小宮山は“凱旋”で投手陣に

1992年の小宮山
筆者は2013年、いよいよ
楽天が日本一を迎えようというとき、仙台の居酒屋で「でも心はベイスターズなんだよな」というミドルの嘆きにも似たつぶやきを聞いたことがある。現在の
DeNAは、かつての親会社は大洋漁業で、漁業もさかんな宮城県では大洋、ひいてはDeNAに親しみがある、ということらしい。ほんの一例に過ぎないが、短期間で候補の人間性や実力を見極めることを余儀なくされる国政選挙などとは違って、落花生……ではなく、落下傘のようにプロ野球チームが高いところから降りてきたくらいで、その地に易々と定着できるわけではないのだ。ましてや、“野球王国”千葉県に、低迷しながらやってきたロッテが完全に根を下ろすのは容易ではなかっただろう。
千葉マリンの強風に、初めてゴーグルをつけたのはロッテ4年目となる助っ人のディアズだったという。そのゴーグルをトレードマークとした
小宮山悟にとっては千葉への移転は“凱旋”でもあった。そんな千葉1年目の92年は最下位で、川崎とまたがっての2年連続の屈辱だった。それでも、93年には南淵時高がプロ野球新記録の14打席連続出塁、後半戦で
伊良部秀輝が7連勝したときには、日本ハムの
大沢啓二監督が「幕張の海で伊良部というクラゲに刺された」と“援護射撃”。伊良部は94年に最多勝、95年には最優秀防御率に。その95年は名物の強風が
オリックスの
野田浩司にとって追い風となり、プロ野球新記録のゲーム19奪三振を献上したが、延長10回のサヨナラ勝ちで、その日のうちに名誉挽回。シーズンでは2位に浮上した。
一方で、94年には地元の千葉県から
福浦和也が入団している。地元から“地元チーム”のロッテへ入団する選手も、じわじわと増えつつあった。
文=犬企画マンホール 写真=BBM