一昨年、創刊60周年を迎えた『週刊ベースボール』。現在、(平日だけ)1日に1冊ずつバックナンバーを紹介する連載を進行中。いつまで続くかは担当者の健康と気力、さらには読者の皆さんの反応次第。できれば末永くお付き合いいただきたい。 着る服がない?

西鉄・稲尾和久監督。口には出さぬが「俺が現役なら」と思っていたんだろう
今回は『1971年7月5日号』。定価は100円。
前回の同じ号から3回目だ。表紙は同じなので、今回は西鉄・稲尾和久監督の写真にした。
前に書いた西鉄ライオンズの記事の続きとなる。
成績低迷が続く中、6月7日にわがまま男のボレスを解雇、その後、青木代表が選手を集め、「連敗阻止ができなかったら球団をつぶしてもいい」という発言をした、というまでは書いた。
これが大騒ぎになったことで、木本オーナーが、
「球団をつぶすなんて私が決めること。フロントが軽々しく言うものではない」
と青木代表を注意。西鉄本社の重役も「一出先の責任者がつぶすなんて言えるものじゃない。傍系企業21社の命運を決めるのは、本社の最高スタッフのやることです」と怒っていたらしいが、これはこれで親会社の傲慢さも感じられる。
青木代表は会見を開き、
「選手に活を入れるためだった。西鉄は地域社会への奉仕という観念でやっているのです。球団解散なんてありませんよ」
と必死に否定していた。
しかし身売り話は事実だった。球団の累積赤字はどんどん大きくなり、穴埋めしていた本社も業績不振にあえぐ。春闘ではゼロ回答でもめ、ストライキになっていた。
このとき身売り先としてウワサになったのは、榎本専務が球団後援会の副会長も務めていたコカ・コーラボトラーズKKだったというが、「いえいえ、まったく考えてません」と完全否定だった。
グラウンドでは連敗が続く稲尾和久監督の苦悩が深くなっていた。
試合後、毎日のように繰り返される質問、
「不振打開の対策は」
に対してもなんとか答えていたが、ある日、さすがに嫌になったか、口にチャックのゼスチャーで“きょうは話すことはない”とアピール。
しかし、記者も、それで引き下がっては記事が書けない。
執拗な質問に対し、稲尾監督がボソリ。
「禁酒、禁煙をやりました。もうやることはありません」
これで笑いが起こった。
さすが稲尾監督、機転がきくな、と感心してだったが、稲尾監督は「笑いごとじゃないぜ」と前置きし、こう続けた。
「ツキを変えようと、毎日、球場入りする背広を着替え、もう着替えする服がなくなった。勝ったときの下着を変えずいたことがあるが、そのまま勝てないんで汚れて着られなくなった。もうやることない」
これにはさすがの記者たちも黙ってしまった。
実際、稲尾夫人も、
「もう着せるものがありません。誰か幸運のツキが回る方法を教えてください。なるべく着るものや食べるものでないことで」
と話していたという。
この時期の西鉄は、5月8日から2引き分けを挟み11連敗、1勝の後、1引き分けを挟み、7連敗、再び1勝の後、今度は5連敗。
稲尾にとって、まさに悪夢だっただろう。
では、またあした。
<次回に続く>
写真=BBM